ハンガリー、チェコ自転車旅   舘 浩道

 2011年夏の海外自転車旅では、ボスニア紛争跡が至るところに残る旧ユーゴ3国を巡った。そして後半の一人旅でハンガリーとチェコを訪れたが、サーバスホストとの交流を心掛けるようにした。

 しかしカントリーサイドでサーバスのホストを探すのは難しく、夏のバカンスシーズンでもあり、避暑などで留守のケースも多く、草の根交流ができたのは4ホストファミリーとホストの友人家庭の1軒となった。

 

 6月24日、ブダペストで安アパートに2泊してから、「日本から自転車旅なんて凄いアドベンチャーね」とメールを貰っていた市内中心部のホスト、ヴァイラグ宅へ。彼女はブダペストのサイクリングmapならたくさんあるよと見せてくれたうちの一冊のmapカバーを指して「これ、私よ」という。

 さらにブダペストの自転車道整備のプラニングをしているからと実際に市内を走ってみた意見を求められた。

 ボクは自転車専用レーンが確保されていて走りやすい反面、歩道の段差が問題と、正直に答えた。ヴァイラグはアクロバットの練習があると夜出かけて行き、ボクが作っておいたカレーシチュウーを美味しかったと食べてくれた。

 

 2泊目は夕方、ヴァイラグ夫婦が彼らの友人宅に招待されているので自転車で出かけることになった。ブダペスト市内を20キロほど進み、途中から列車を使って数駅先の田舎駅で下車。ダートにタイヤを取られながら迷いに迷ってようやく友人のサンダーさんの別荘風の家につく。アルデュキャッターシ村だ。

 

 到着が遅かったので、すぐに庭の真ん中で火が焚かれ、友人夫婦とその隣人夫婦、そして我々3人のパーティーが始まった。まず習慣の強いアルコールのシュナップスで乾杯。火が燃え上がると用意されていたモヨロとう柳の枝のような長い櫛に油身の多い豚肉や玉ねぎなどを突き刺し火にかざして焼く。肉の油が溶けてきたら火の周りに並べたトーストに油をたらすことを根気よく繰り返す。

 火を囲んで彼らの四方山話が続く。時々、ヴァイラグの夫のデビッドが訳してくれる。調味料を使わない素朴なハンガリー風BBQだが、ビールやワインとともに素材の素朴な味を楽しめた。ハンガリーの農民の伝統的な食文化がこうして現在に息づいている。

 彼らの話は途切れることなく続いていたが、ボクは途中でダイニングの片隅の簡易ベッドで休ませてもらった。

 

 6月25日。朝は冷えた。8時にサンダーさんの家を辞した。彼は「もう行くのかい。もっと居ればいいのに」と云ってくれたが、午後からドナウでカヌーを楽しむ彼らにはつきあえない。

 

 

 ブダペストからブラティスラバに向かう途中にジェールという小さな街がある。この街のサーバスのホスト、ビラさん(写真)が招いてくれた。

 彼は造船用ロボットのセールスをしていて、ドナウの支流に面した日本流でいえば億ション暮らしだ。しかも2戸も持っている。そのうちの1室をあてがわれた。ホテルのような豪華な設備だ。

 ボクはこんなこともあろうと思って、ハンガリーのブランドワインの「トカイ」を進呈した。サーバスのホストでお世話になるのは無料にしても、手ぶらというわけにはいかないから…。

 

 偶然にも、彼はハンガリーワインの愛好家で、ボクが一緒に飲もうと思って差し出した「トカイ」は彼のワインセラーに仕舞われてしまった。安物のワインを持って行ったらとんだ恥さらしになるところだった。

 もちろんボクは彼が勧めてくれるワインを「エゲッシュ・ゲラ」(乾杯)しておいしく頂いた。日本人はあなたが初めてと云ってくれた。食後、ベランダからドナウの夕暮れの景色を楽しんだ。

 翌日は小さな街をくまなく巡ったり、ドナウの支流で泳いだりして過ごした。夕方、ビラさんに奨められて魚を食べさせるレストランに入った。建物は相当古く雰囲気もよかった。ドナウで獲れる体長2メートル、重さ100キロのフォートと呼ばれている巨大魚のスープが出てきた。タラに似た淡泊な味だが、濃厚なスープと融け合って美味だったが、量が多くて食べきれない。6月28日。朝の気温は16度。快晴。ビラ家の家族に見送られて億ションを後にした。

 

 ウィーンに到着した翌日の6月30日。三つ星ホテルから3キロ走って、市内中心部の西寄りに暮らすエレノワさんとジョセフさん宅にお邪魔した。

 トラムが通う表通りからアパートに入ったとたん、突然田舎に来たような雰囲気。アパートは20メートルのリンデンの樹がそびえる大きな庭に面していた。リンデンの樹からは時折り、カエデに似た種子が風に乗ってクルクルと舞い降りてくる。これが人口180万のウィーン中心部3キロ圏内とは信じられない。魔法の世界に入り込んだようだった。京都の「町屋」を連想したが、やはりウィーンならではの暮らし方なのだろう。

 

 さらに驚いたのが、早着きのボクのためにご主人が、直径1.5メートルの大きな太陽熱ヒーターを庭に持ち出し、湯を沸かしたり、料理をこしらえてくれたことだ。湯は10分で沸騰したが、料理の方は8割方できたところで薄曇りとなり、あとはガスで仕上げてくれた。さらにボクのために醤油味の豆腐ステーキも。

 豆腐はウィーンでもポピュラーな食品なのだろう。太陽熱ヒーターはドイツ製で、使っている市民はほとんどいないというエコロジストでもある。

 

 小さなアパートと謙遜しておられたが、床面積は我が家よりも広いようだ。壁面一杯の本棚や、娘さんのピアノの上にしつらえられたベッドと階段箪笥など、いろいろと工夫された生活空間だ。ボクのためにも3畳ほどのベッドつき小部屋が用意されていた。

 奥さんのエレノワも帰宅して、東日本大震災のことをいろいろと聞かれた。ボクは日本が科学技術のみを信じて自然の力を侮ってきた結果ですと答え、でも国民は復興を目指して頑張っていますと付け加えた。

 

 夜はピアノを習っている娘のエッサー(18)も交えて折り鶴を折ったりして過ごした。

 みなさん、千羽鶴のことは核廃絶のシンボルとして日本で愛されていることをよくご存じで、エッサーは折り方図を見ながら巧みに完成させた。

 ジョセフさんは「羽ばたく折り鶴」にとても関心をしめたので、ボクは今回の旅でHさんから習った折り方を伝授した。ジョセフさんの鶴も見事に羽ばたいた。

 7月1日。ウィーンから西へ30キロのドナウの岸辺に建つツベンテンドルフ原発にジョセフさんと自転車で出かけることになった。

 この原発は1978年にこの国初の原発として建設されたものの、一度も稼働していない(写真)。

 チェルノブイリの事故の影響などを受け国民投票で僅差で否決された結果、30年以上にわたって封印されたままなのだ。それがフクシマ第2原発の惨事で、国民の関心がさらに集まっているという。その原発建屋のそばの看板には、1978年11月の国民投票で賛成157万6838人、反対160万6308人となった結果、原発は運転されないまま今日に至っているとある。

 ジョセフさんは、だから「最も安全な原発です」とジョークを飛ばし、私も当時、自転車で反対デモに加わりましたと語ってくれた。

 原発建屋には2009年から始めたという建屋に貼り付けた太陽光パネルによる発電量が電光掲示板で示されている。核燃料の代わりに太陽光で発電している原発など、聞いたこともない。その能力は17kw/hと出ていた。この光景は、原発から自然エネルギーへという「フクシマ」を契機とした世界的な変革の流れの象徴のように感じられた。地元紙ではフクシマ以降日本人の見学も増えているという。

 

 チェコのプラハでお世話になるホスト、ジョージとリダには昨年、東京で会っている。うまく連絡がとれて、プラハを案内するから、ぜひいらっしゃいと歓迎してくれた(写真)。

 カップルだった彼らは、6月に結婚したという。「ご結婚おめでとうございます」と、お祝いにボヘミアの最高級のシャンパンを差し出したら、ジョージは「昨年末に、晴海の東京ベイでプロポーズしたのです」と打ち明けてくれた。プラハの歴史的建造物の保存の仕事に関係しているリダは、控えめに笑っていた。

 彼らが4日間提供してくれるスペースにも驚いた。その場所は有名なカレル橋と、プラハのシンボル、プラハ城の中間にあり、どちらにも徒歩数分で行くことができる。

 

 アパートの建物は16世紀のもので、当初はプラハ城に仕える人たちが居住していたとジョージが教えてくれた。その建物の2LDKをキッチンも含めて自由に使ってと、キーを渡された。

 彼ら夫婦は、近くの別のマンションで暮らしているからと、ボクにとっては4日間のプラハ観光の拠点として気兼ねなく使えるホテルのような存在となった。部屋の前を時折、トラムが滑って行く。

 ジョージは、ここにメッセージを残してくれと分厚いノートを差し出した。それを見るとすでに19年前から、世界各地からのトラベラーを受け入れており、有名観光地の中心に位置する、この部屋を年間10組ほどが訪れ、感謝の言葉を残している。

 

 3日間、ボクは美しいプラハの街を歩き回った。リダさんの仕事はこうした美しい旧市街の景観を保つために欠かせない建築物の改築に関して、市民からの申請の際に許可を与えたり、場合により彩色の変更などを求めるというプラハ市の重要な業務で、これにより旧市街の景観が守られている。(写真はバーツラフ広場)

 

 7月9日。ジョージからの置き手紙がアパートの机の上に置かれていた。奥さんのリダの両親に会いに行くので、もう会えないがプラハを楽しんでとあり、友達も歓迎するよ…と結ばれている。

 結婚記念カードを作ったのでもらってくれと、ボクと彼が東京で泊まったIさんの分が置かれていた。

 ボクは、2日前の夕方、ジョージと歩いたヴィシェフラード公園から見た夕暮のヴァルタバ川の光景が印象に残っていたので、「スメタナの交響曲『我が祖国』の第1楽章『ヴィシェフラード』の旋律を心に描いています。東京で再会しましょう」と例のノートに書いた。もちろんHさんから習った羽ばたく鶴も添えた。

 

 (注)このレポートはホストとの交流を中心にまとめたものなので、自転車旅について興味のあるかたは http://cycle.tc/ から「舘浩道の海外自転車旅」(facebook)をご覧下さい。