インド最南端 サーバス会議への旅   増田修代

なぜ インドへ?

  インドがテレビに映ることもなかった約半世紀前、私は南インド・マドラスの大学に短期留学した。遊学の後、カルカッタ(現在はコルカタ)に出、そこで日本から到着した女子大生3人と合流し、インド周遊大旅行を始めた。最後はケララ州トリバンドラムから船でセイロン島に渡り、セイロン(現在はスリランカ)のコロンボ港からフランス船で22日かけて横浜港に帰り着いた。


 その後の人生の変遷の中でもインドからのニュースは届き、元学長の未亡人と会いたい思いは自分の体力の衰えを自覚するたびに強まってきた。
 インドサーバス国内会議が、インド亜大陸最南端の町カニャクマリで開かれ、海外からの参加者を募っているというニュースが飛び込んできたとき、断固行くと決めた。(冒頭の写真は、南インドの不思議な光景、王様が象に引っ張らせても動かなかった岩、サーバス家庭で出された昼ご飯。唐辛子も) 

 
 
 

インド南端部2週間の旅

 逆時計回りでのインド南端部2週間の旅であった。
羽田 ⇒ チェンナイ(旧マドラス)空港(taxi) ⇒ オーロビル(知人宅泊)(taxi) ⇒ チェンナイ空港(plane) ⇒ トリバンドラム空港(taxi) ⇒ ミトラニケタン(サーバスホストのゲストハウス泊)(taxi) ⇒ カニャクマリ(インドサーバス国内会議)(private bus) ⇒ マドゥライ(ホテル泊)(train & taxi) ⇒ オーロビル(知人宅泊)(taxi) ⇒ チェンナイ(知人宅泊) ⇒ チェンナイ空港 ⇒ 成田

 

インドつれづれ

 

 華僑とならんで印僑という言葉があるようにインド人は昔から外国移住性向が強い。(写真は、世界中から人が集まるオーロビルの黄金の瞑想館。右下に小さく人影が見える)

 現在、カナダ、オーストラリア、シンガポールなど英連邦諸国だけでなく、アメリカ・日本への進出が進んでおり、IT関連の仕事であろうが、息子や娘が米国や日本に住んでいる話をあちこちで耳にした。今後、親族訪問を兼ねたインド人トラベラーの来日が予想される。なお、グジャラートの会員は団体を作って日本旅行を実現させたいと述べていた。

 ある訪日経験のあるインド人は日本の古寺にヒンドゥーの神々像があることに驚き、感銘を受けたと語った。仏教伝来以来、日本文化の1つの源はインドなのである。(写真は、マドゥライの大寺院の山門、山門の彫刻)

 

 
 

 チェンナイの経済発展の確かさや変化を最も感じたのは、元学長夫人の創立した1年制の職業カレッジの100名を超す修了生と中退者の全員が就職していると知った時である。「僕はクラスの落ちこぼれでしたが、就職してコンピュータ・グラフィックの会社で働けたので姉妹にダウリー(結婚持参金)を用意してあげられ、家族の義務を果たせました」とスピーチした中退者もいた。(写真、公設市場内の祭りの楽隊)

 

 

 激変中とみることもできるが、半世紀前に『昔話』のつもりで聞いた話は、実際に今、貧しい村落で起きている事件であった。カーストの違いなどで結婚できない者同士が駆け落ちしたので、村人が秩序破りを殺しに行ったとか、娘に持たせる持参金がないので結婚させられず、仕方なく親は息子と結婚させたが生まれた子は障害者だった・・・とか。こういう悲劇をまさか聞くことになるとは思ってなかった。(写真、村民が信仰するのはヒンズー教の神様、両手でもっているのは紐ではなく、ひざの上に横たわる女神のはらわた)

 

 

 寄付文化はヒンドゥー・イスラム圏では有効な社会統合力をもつ。乞食の数は減少したが、インドでは自分に喜捨することで相手に「功徳を積ませてあげる」という考えが根強い。この伝統が、集めた寄付での学校運営などを可能にし、インドの富の格差是正にプラスの作用をしている。(写真、マドゥライの宮殿史跡。17世紀)

 

 

 ただし、貧しい者が富める者からもらうのは自分たちの権利と思う「泥棒の正義」も生きている。「盗まれるほうが悪い」世界である。恥をさらすが、私もウエストポーチに入れてある財布から、2日前に引き出した4万円強のルピー札のうち3万円強分を盗まれた。引き出した紙幣を他人に数えさせてはいけない。財布はスーツケースに入れて鍵をかける、できたらシャワー室までもってゆくこと。

  IT先進国と思っていたが、なにしろインフラ未整備の新興国である。そこで持ち物でお勧めはまづ、マスク。当地では土は水との親和性が低く、雨が降った後でも空気はほこりっぽい。そのうえ道路の端は一般に舗装されていない。オートバイやオートリキシャに乗っても、また、道を歩いていても喉や気管支がやられる。次は虫よけスプレー。蚊やり線香でむせる人には特に勧める。懐中電灯は停電が頻発するのでショルダーバッグに付けておくとよい。ゴム草履は売っているが、宿についたらすぐ必需品となる。床がコンクリートや石なので素足にはきついからである。お湯を注げば食べられるインスタント味噌スープはインド料理を食べやすくしてくれるので是非。

 インドでは交渉力。日本では交渉力のない人でも生きていけるが、世界中でそんなところは珍しい。ただし私はこの点でも劣等生であった。オートリキシャでもタクシーでも基準価格はあっても定価はない。前もってホストが「タクシーでは750ルピー」と相場を教えてくれていた。それで乗車前に私が「750ルピー」と言っても「それは以前の値段、今は900ルピーになっている」と言われ乗った。そのうえ、ドライバーに目的地を探すのに苦労したからと1000ルピー要求され、ついチップ感覚で払ってしまった。後で「今でも750ルピー」と知る。似たようなことの繰り返しが私のインドでのタクシー旅行であった…ちなみにインドではレストランでもチップは不要。一人の日本人が交渉力が低ければ、相手になめられ、やがて日本人全体がぼられる結果を招く。インドに行く方は自分の交渉力を鍛える機会と考えてください。

 タクシーと比べ、インドの公共交通手段は信じられないほど安い。市内と郊外を結ぶバスは15ルピー、5時間の列車の旅でも300ルピー弱。チェンナイからトリバンドラムまでの飛行機でも5000ルピーほど。光熱費も安い。(写真、長距離列車のホームと車中)

 

 
 

 税金を払うのは主に外資、外国人、大企業、藩王など高額所得者で、中小企業のオーナーを含む一般大衆は無税である。経済格差は広がっているが、公共料金が安く、税が取られないなら暮らしてゆける人数は多くなる。これがインドの貧民救済システムである。

 『インドを旅行したなら世界のどこにでも行ける』これは信じてよいようだ。あちこちで裸足にならねばならず、温かいお風呂に浸かることもない旅には厳しい面があるけれど、サーバスを利用してならインド旅行は誰にでも可能となるし、その経験で培った力は世界のどこでも通用する。(写真、マハバリプラムの世界遺産、7世紀)

 

 

トリバンドラムでの出会い

 ケララ州は紀元前3000年ごろのメソポタミア文献にもスパイス貿易の地と記された繁栄の地で、今でもインドで一番豊かな州である。この山奥でサーバス創立に関わったホストに出会った。(写真、ヴィシュワナータン師、娘婿、夫人。校内)

 

 
 

 ミトラニケタンという名称のキャンパスは極貧の部族民の子供のための寄宿学校であった。創始者 Sri Viswanathan (Sriは聖を意味する敬称)はカルカッタ、アメリカ、北欧で教育を受けた後、1956年にこのNGOを設立した。子供は10ケ月間ここで教育を受け、6-7月の雨期には親許に戻る。それを10年間無償で行う。ドイツの団体が最大のスポンサーとなっており、ちょうどドイツの高校生ボランティアとその父母・教師を含め30名ほどが来ていた。(写真…ドイツ人一行と子供たちと奉仕をする学生)

 

 
 

 ヴィシュワナータン師は声は小さいが、高貴な雰囲気のお年寄りであった。私がこれからインドサーバス国内会議に出席すると話すと、娘婿は笑って、数年前にはこのキャンパスがその会場に使われ、集まったのは20数名であったと語った。翌日、ヴィシュワナータン師とゆっくり話しをした。贈呈すべく持参した安野光雅の『旅の絵本VIII 日本編』をめくりながら、1926生まれの画家の子供時代の思い出の光景を説明。「電気をほんの少ししか使えなかった時代の日本では牛馬など動物は身近な存在で、インドと似ていたでしょう。この本はそういう時代でも日本人は幸せに暮らしていたという、画家の反原発メッセージが込められているんです」と。ヴィシュワナータン師は昔、日本をサーバス旅行した際の思い出を語った。「誠実で思いやりある素晴らしい人々と会うことができた。もう名前も思い出せないが、どうか日本サーバスの皆さんに私からの感謝の気持ちを伝えてください」と。そこから話はサーバス創立者のボブ・リトワイヤー氏に飛んだ。なんと、私はインドの片田舎でリトワイヤー氏と一緒にアメリカを2ケ月間旅行した経験があり、サーバス創立にも関わった人物に出合っていたのである。「日本人(富岡征四郎父子)がボブ・リトワイヤーにインタビューをした、あのDVDを見た。ボブはsimple manで、実にいい男だった」。その目は亡き友を思う涙でぬれていた。

 

カニャクマリとヴィヴェカナンダ

 カニャクマリ(旧コモリン岬)は三角形のインド亜大陸が海に突き出た最南端である。そこに立って海を見て驚いた。水平線の色が左手のベンガル湾側は青色、それが右手のアラビア海側を見れば白色。そして水平線の内側は緑色で、このインド洋の波が打ち寄せてくる。浜辺の砂に黒っぽい所、赤っぽい所があり、海水の成分の違いを認識した。この3つの海の出合う所が2014年のインドサーバスメンバーが集まり、出合う場所であった。(写真は上から沐浴する人々、日の出を拝みに集まる人々、3つの海が運ぶ3色の砂地)

 

 
 
 

 宿はヴィヴェカナンダ・ケンドラという緑豊なキャンパスであった。(写真は上から受付の建物、施設内には孔雀やサギも住む、海岸とキャンパスの建物)

 

 
 
 

 19世紀のインドはイギリスの植民地支配により経済面だけでなく、西洋からの文化流入によって伝統文化がさげすまれ、精神面でも貧困化が進んでいた。時代はインド人に誇りを取り戻させ希望を与えたいという願いをもった人物を輩出し、彼らの活動の中からインドは独立に向かって動いていったわけだが、Swami Vivekananda(1863-1902)もその偉人群の一人であった。(写真)

 

 

 彼の遺徳をたたえ、その意思の実現を使命とする団体がもともとヒンドゥー教徒の聖地で巡礼者が絶えないこの地で、宿泊施設、学校、自己自覚研修キャンプ、ダンス、ヨガなど種々の教育・教養関連事業を行っている。むろん寄付も募っている。

 一泊20ルピーの長屋宿から2000ドルの一軒家まである中で、我われの部屋は5~6ドルレベルであった。2名一部屋が原則だが、90ルピーの参加登録料に45ルピー上乗せすれば一部屋占有することが許された。
 施設内の浜辺から右手に2つの岩島が見え、1つにはヴィヴェカナンダ寺院が、隣の岩にはタミル詩人の巨大な像が眺められる。(写真は海に浮かぶ島、島に渡るボート)

 

 
 

 人類の歴史で、一神教間の宗教戦争ほど残酷な人殺しはない。ヴィヴェカナンダはインドの宗教伝統の中から宗教対立を乗り越え得る思想をはぐくみ、1893年シカゴの世界宗教会議で提示した。「もともと真理は1つの教義や宗教に収まりきるものではなく、多様な宗教の全体が真理であり、諸宗教はその違いによって補い合うべきものだ」と。
 彼は世界宗教会議でのヒンドゥー教代表に認められる少し前に、このカニャクマリに来て、海に浮かぶ岩島で3日間の瞑想を行った。(写真は巡礼・観光客であふれる島の寺院)

 

 

サーバス国内会議報告

 サーバスの会議は2月28日の夕刻、屋外のギリシャ風劇場で開幕した。(写真は上から、いざ会場へ、左から3人目は釜山で会ったシャルマさん、開会式会場、舞台の上、右がクマール会長、左がラバナン氏)

 

 
 
 

 私は浴衣で参加。開会のあいさつに続くラバナン氏のスピーチがあまりにも先進的で、衝撃を受けた。現代各地で顕在化してきた性転換者への差別問題に触れて、社会的・政治的に隔てられている我われはよりヒューマンな普遍性を求めてゆくべきであること、ガンジーの精神でインドサーバスが結びついている幸せを語り、最後は、我われはインドを変えることができる(We can change India!)で締めくくった。

 あらためてサーバスがインドの、特にガンジーの思想を源泉にしていることを教えられた。


 次に参加者の自己紹介。私はその前に質問されていたので日本サーバスの成り立ちについて話した。また、関東支部の「若者にサーバスを」プロジェクトのリーダーであることを明かし、サーバス関東支部のポスターをインドサーバス会長のクマール氏に贈呈した。

 日本のほかに外国からは英国からのカップルだけであったが、全体で参加者は53人に上った。(写真は会議場と記念撮影)

 

 
 

 会議ではピース・コーディネィターの役割と存在についての議論もあった。皆、根本から考え、検討しようとしている。英国ではサーバスに入会すること自体がピース・コーディネィターになることと理解され、その職は置かないそうだ。(写真はダンスに興じる参加者…撮影:クマール会長)

 

インドは招く

 

 紀元前にさかのぼるところもあるほど長期にわたる富の蓄積があって、それを背景に作られた遺跡があちこちに存在し、西欧諸国の価値観に衝撃を与える思想的伝統をもち、しかも、神が客の姿で現れる言い伝えがあるように、もてなすのが好きなお国柄だとなれば、インドは世界の中でもかなり魅力的な旅行先である。
 
 人生最後のインド旅行のつもりで出かけたのだが、写真を見ていると、あの笑顔にまた会いたいと思う人が次々に出てくる。インド最南端で私は幸せ時間を味わった。「次の国内会議はカシミールでやりたい、ぜひまた来てください」と言ってくれた言葉も忘れられない。(終)

  

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コメント: 2
  • #1

    Hideaki Yoshioka (日曜日, 01 2月 2015 02:04)

    test test
    私も南インドに行きました。

  • #2

    N.S. (火曜日, 31 3月 2015 01:15)

    ・臨場感あふれる、また、示唆に富んだ事項がいくつかあり、楽しく、感銘を受けながら読みました。

    ・衛生的に劣悪な国、安全上幾多の問題のある国の一つの割りに、インドに、特に、若い女性が好んで行き、病みつきになった話を時々聞きますが、その理由の一端を垣間見ることができました。

    ・日本の戦後は、豊かな物質文明の享受を受けている割に、精神的には空虚であり満ち足りない。また、個人主義が横行し、人と人の絆の希薄さ等、問題が多い社会となってしまった。また、欧米に比較すると、ヴォランティア、寄付、奉仕の精神が薄い。(たとえば、NPOにしても外国と日本では、寄付の額、奉仕する人の数に圧倒的に差がある)(日本にも、仁、義、礼、智、信と言う言葉はあるが)
    こんな気持ちの中で読んでみると、金、物質でない、もっと精神的な、人道的な大切なものをインドの人は大切にしていると言うことを感じさせられました。
    さて、今後は????