私達夫婦はこの9月、サンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路に挑んだ。これは2年越しの準備の末に実現した念願の旅だった。残念ながら今回は徒歩による完全踏破はならなかったが素晴らしい出会いと有り得がたい経験を積むことができた。この記憶を私の頭の中にだけ留めておくのは勿体ないという思いからこの度、スペイン巡礼紀行前篇としてまとめることにした。前篇としているのは今回、中途で途絶えた巡礼の続きに再度挑戦してそれを後編としたい思いからである。
ただ私は自分の筆力がもどかしい。どこまで私達が嗅いだスペインの匂いやそこに住む人たちの敬虔でつつましい暮らしから感じた自身に対する恥の感覚をどこまでお伝え出来るか?できれば一人でも多くの人が私達と同じ道を歩いていただきたい、私の思いはこのことに尽きる。
いまだに彼の地での感傷が拭えず感情過多になっているかもしれない。その高ぶりのままに書き記すのでいささか長文になることをお許しいただきたい。従って、この前篇も何回かに分けて投稿することになる。
さらに各章末には今後スペイン巡礼を計画する方に参考になることを<参考>として書き加えていく。
準備
数年前まで海外での巡礼旅など全く自分には無縁どころか、その存在すら知らなかった私がスペインでの巡礼を考えるようになったきっかけは一本の映画だった。その映画は知る人ぞ知る『星の旅人たち』。アメリカ映画で監督はエミリオ・エステベス。彼の実父であるマーチン・シーンが主演している。ストーリーはカミーノ(スペイン語で巡礼を表す言葉)で遭難死した息子(エミリオ・エステベスが演じている)の意思を理解しようとマーチン・シーン演じる父が息子の形見のザックを背負ってゴールであるサンチャゴ・コンポステーラを目指して歩くという内容。上映中の公会堂の前でポスターを見た私は山岳映画らしいと勘違いしてTUTAYAで借り出した。
「こんな映画借りて来た」と言うと、妻は「えっ!それ、前から観たかった」と驚く。毎週、教会に通う妻はスペインのカミーノとそこを舞台にしたこの映画のことは教会仲間から聞いて以前から関心を持っていたらしい。
映画そのものの出来は私には中の上位にしか思えなかったが、延々と続く巡礼路の映像とそこを歩き続ける巡礼者たちの心象には感銘を受けた。
実はその数か月前まで私は山仲間とヒマラヤのトレッキングに行こうと話し合っていた。ところが具体的に準備を始めるとどうも現地のシェルパとトレッカーとの関係が一頃よりも悪化しているらしいとの情報に接し、急速にヒマラヤの魅力が色褪せていたのだ。そこで私はその代替候補として『スペイン巡礼路の旅』を挙げた。つまり私は『歩いてスペインを横断する』ことに意義を見たのだ。
カミーノのゴールはサンティアゴ・デ・コンポステーラ。そこの大聖堂はイエスの12人の弟子の一人で殉教した聖ヤコブの骨がそこで見つかったという言い伝えから9世紀に聖堂が建てられたのを源としている。9世紀といえばスペインの地をイスラム教徒から奪い返すレコン・キスタ運動が真っ盛りの頃。キリスト教徒たちを鼓舞する目的で創り上げられた話だと思うが今ではサンティアゴはローマ、エルサレムと並ぶ三大聖地の一つである。
カソリックである妻にとってサンティアゴは憧れの地であったがそこへの巡礼は遠い存在だった。それがその映画を観ることによって「もしかしたら私でも歩けるかもしれない」と思ったらしい。
こうして山仲間とのヒマラヤ計画が頓挫した代りに夫婦でのカミーノ計画が持ち上がった。
『カミーノ』をキーワードにネット検索での情報収集から準備を始めた。そして、日本にもNPO法人「日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会」という組織があることを知り、そこが発行元であるガイドブックを読んで概略を頭に入れた。
サンティアゴに至る巡礼路は実はいくつもあるが、その中で最も歴史が古く今でもメジャーな存在なのがフランス側から発しピレネーを超えて、ほぼ真西に伸びる『フランス人の道』で1993年に世界文化遺産に登録されている。例の映画もこのルートを舞台にしている。
ガイドブックによると一般的な出発点であるフランス側の国境の村サン・ジャン・ピエ・ド・ポーからサンティアゴまでは約800㎞。一日に平均20㎞歩くとしても単純計算で40日、それに日本からの往復と予備日を考えると50日近くを要する。
その日程だけで自分にとって人生最後の大冒険になるだろうと思った。その準備に最低1年は要するべきだ。そしてスペインの気候を考えると9月初旬スタートが望ましい。
フィジカル面の準備として当然、ロングウォーキングが必要だ。まず手近なコースとして選んだのが多摩川の河川敷だ。京浜急行の「六郷土手」駅からつながるサイクリングコースを下り、羽田空港で折り返して今度は川沿いに上り、出発点を過ぎて新幹線のガード下で再び折り返して歩行距離は25㎞。ここを初めて二人で歩いたのは一昨年の暮れ、晴れ渡るものの寒風が吹きすさび河川敷は凍えるような寒さだった。
アノラックに軽ザックにストックという都内には相応しからぬ風体の老夫婦がひたすら歩く姿はどう映っただろう。「何が楽しくてあんなことやっているのだろう」と思われたかもしれない。
そう思われても仕方ない。このコースは長いだけで風景に変化がなく飽きる。ただここを歩いて感心したことが二つあった。
この河川敷は一帯が公園になっており、いくつもの野球専用グラウンドが並び休日は少年野球チームの選手やスタッフ、時には子供たちの父兄で賑わうためか1㎞位の間隔で簡易トイレが設置されている。当日は冷えることもあって妻はそこを2回ほど利用したが、「凄く綺麗に掃除されている」と言って感心していたことが一つ目。
二つ目は犬を散歩させている人を多く見かけたが、6時間以上歩いていて犬の糞を殆ど見かけなかったこと。皆、シャベルとごみ袋を持ち歩いてその都度、処理している。
いずれも日本のクリンネスに関わることでこれは誇れることだと思った。
それにしても、このコースを何度も歩く気にはならなかったので次に選んだのが箱根だ。小田急の終点、箱根湯本を起点に旧東海道を登り、畑宿を経て芦ノ湖までが東坂。そして関所跡から箱根峠を越えて三島大社を終点とするのが西坂。あわせて総延長28㎞。その殆どに江戸時代に整備された石畳が残る。
初挑戦でいきなりこのコースを一気に歩き通した時は流石にきつかった。三島市内に入ろうというあたりにハイウェイのランプがあって「あぁ。もうすぐだ」と思わせておいてそこからが長い。江戸時代の石畳に代わっておそらく最近になって整備したと思われる遊歩道が延々と続くがこれが歩きにくい。妻は「もう、こんな道は嫌」と言って、わざわざ車道に降りて歩くほど。三島大社に着いた時には私も腿がぱんぱんだった。
それでも西坂の景観が私はいたく気に入って、その後も4回位このルートを歩いた。山中城址を過ぎたあたりから一気に景観が広がり、海沿いに沼津市を望んで右手に富士山の裾が広がるのを緩やかな坂を下りながら眺めるのは実に気持ちがいい。
一方で事務的な準備の方も着々と進めた。まず装備のリストアップ。これはガイドブックに一般的な装備が載っているので更に山歩きの経験からいる物といらない物を選別する。ただ課題は重さをどこまで軽減できるかだ。理想は私が7㎏、妻の場合は5㎏だがこれはかなり困難だ。必要最小限のものに絞ったうえで実際に歩いてみるシミュレーションがいずれ必要だ。ちなみにこの時点で私は愛機の一眼レフを諦めコンパクトデジカメを持っていくことにした。
我々の計画を具体的に詰めれば詰める程、不安感がつのる。
本当に私達に800㎞歩けるだろうか?
言葉が通じなくても大丈夫か?
現地の治安は? 等々
これらの懸念に対するQ&Aはガイドブックにも載っている。しかし、そこはやはり実際の経験者からじかに聞きたい。そこで大雑把な行程ができた段階で「カミーノ友の会」の相談デスクを申し込んだ。いくつか質問はあるがどんな答えが帰って来るかは大体想像できるものばかりだ。それよりもどんな人達が実際に歩いているのかを見たかった。
しかし、相談会では思わぬ収穫を得ることができた。
私達はガイドブックに案内されている通りまずパリに入り、そこから列車で移動してサン・ジャン・ピエ・ド・ポーから歩き始める一般的な行程を考えていた。
当日の相談会の担当は50代くらいの女性だった。すでに何回かフランス人の道を完全踏破していると言う。彼女は、私達のプランを聞くと具体的にアドバイスした。
「それなら今エアフランスで羽田発のパリ直行便があります。それだとパリに明け方に着くので非常に便利ですよ」
成田でなく羽田で、しかも夜行便というのは都合がいい。
「パリからはどう移動される予定ですか?」と、逆に質問された。これはすでに決めてある。TGVでバイヨンヌまで移動し、そこでローカル電車に乗り換える。
「う~ん。そうだとサン・ジャック(サン・ジャン・ピエ・ド・ポーの略称)に泊まって翌日早くから歩き出すことになりますね。それはちょっときついです」と言って、ピレネーを超えて次の宿泊地であるロンセンバージェスまでのルートがフランス人の道の中でも最もハードなものの一つだと教えた。しかも日本からはパリまで12時間、そこからバイヨンヌまでは5時間かかる。たとえ前日、サン・ジャックで一泊してもいきなりの山登りは危険ですとも言った。
そこで彼女にアドバイスされたのが初日はルート途中にあるオリセンというアルベルゲに泊まることだ。
アルベルゲとは巡礼者向けの宿のことであり巡礼路沿いの大抵の町や村に何軒かある。そのオリセンは予約制だが夕食に出るスープが名物だと言う。
この耳寄りな情報には特に妻が喜んだ。加えて担当された女性がこう言うと失礼だが、ごく普通のおばさんに見えることもかえって心強く思ったようだ。マッチョな山女でなくても歩き通せるんだとの思いを持ったようだ。
それと偶然、同じ頃に妻は教会の仲間にフランス人の道を二回も歩いたというお爺さんがいることを知り、彼に「私にも歩けるでしょうか?」と質問した所、「5キロ歩ける人なら歩き通せる」と即答されたことも自信を深めたという。
また友の会は独自に日本版のクレデンシャルを発行しているので私達は早々と手に入れた。クレデンシャルとは巡礼手帳のことでここに要所ごとにスタンプと日付を刻印して貰うことで巡礼の証しとするものでこれをもってサンチャゴにゴールしたら巡礼証明書を発行して貰える。信仰の厚い巡礼者にとっては巡礼証明書をゲットすることが最大の目標になるからこのクレデンシャルはパスポートと同じ位、重要な物なのだ。
この相談会に行ったのが出発予定の半年前。いよいよ準備に追われたその後の六カ月は実に忙しくも充実した日々だった。もしかしたら現役時代よりも忙しかったような気がする。
まず詳細な行程計画を立てなければならない。そこでカミーノの公式ガイドブックをアマゾンで取り寄せた。これは英語版だが各工程の詳細なマップと解説、それと宿泊施設などが記載されている。
その上で今の自分がザックかついで山道を一日にどれだけ歩けるかをシミュレーションした。
5月下旬とはいえ梅雨入り間近のムシムシする日にわざわざウィンドブレーカーや寝袋まで担いで箱根路を歩いた。妻が「物好きにも程がある」と呆れたのもごもっともで、これは流石にしんどかったが8㎏近い荷物をしょって10時間歩き通したことで、自分のペースを時速3キロと結論づけることができた。
アルベルゲを泊まり歩く場合は7時には出発して午後2時には次の目的地に着いていることが理想だ。だから1日の走行距離を平均で20㎞前後とした。そして英語版ガイドブックを首っ引きに一日ごとの行程を作った。これは実に楽しい作業だ。巡礼路や史跡の写真に自分たちの姿を投影し想像を膨らませてはワクワクした。
自分たちが個人旅行した経験がないと聞いた友人の忠告があったのでたいして関心がないのにハワイに一週間滞在することまでしたが日本語が通じるハワイでの経験はあまり役に立たなかった。
こうして羽田出発は9月7日の夜。巡礼スタートが9月9日、サンチャゴ到着予定はそれから39日後の10月18日。妻が一緒なので休養にあてる予備日を3日みて帰国日を10月22日とした。
<参考>
国内で入手できるカミーノの情報源を記す。
まずガイドブック。
○聖地サンティアゴ巡礼 日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会【著】ダイヤモンド社
私の知る限り、唯一のカミーノに関する日本語ガイドブック。まず巡礼路の全体像を掴むのには必須。ただここに載っている地図は大雑把過ぎて現地では頼りない。むしろ「スペイン語用例集」とかがコンパクトにまとまっていて便利。
○A Guidebook to the Camino de Santiago John Brierley 【著】
数年ごとに更新されているフランス人の道の(ほぼ)英文完全ガイドブック。全線を20~30㎞ごとに33ブロックに分け詳細な地図とアルベルゲ、ホテル、バール等の詳細情報を掲載。アルベルゲのベッド数までのっているのは助かる。現地ではほぼ全てのパーティが最低1冊は携帯していた。ルートを推薦ルートと景観重視のオプションルート、悪天候時のエマージェンシールートに分けて色分けしているので使いやすい。アマゾンで入手できる。
○「日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会」
月に2回位、都内で相談会を開催している。また日本版クレデンシャルも一部1,000円で発行している。
離日直前に妻がネット上でみつけたサイトを紹介します。
閑古鳥旅行社>サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼
http://kankodori.net/travel/011/
木村岳人さんという若者が運営している個人サイト。彼は2012年の4月~7月にかけてなんとフランス国内から始めてスペインに入りフランス人の道を歩いてサンティアゴに到達している。踏破距離1,600km!その詳細な記録です。写真の豊富なこと、ディテールに渡る記憶力に感服。日本にもまだこういう若者がいるんです。
映画ではもう1本。
フランス映画「サン・ジャックへの道」。女性監督コリーヌ・セローの作品。
出演者は全て無名の俳優。題名が示唆するようにフランス国内が主な舞台で国境を抜けた途端にあっという間にサンティアゴに着いたのには拍子抜けした。
最後にフランス人の道を歩いた人のノンフィクション二冊。
巡礼コメディ旅日記 僕のサンティアゴ巡礼の道 ハーベイ・カーケリング【著】みすず書房
カミーノ 魂の旅路 シャーリー・マクレーン【著】飛鳥新社
前者の著者はヨーロッパでは有名なドイツのコメディアン。後者のそれは超有名なハリウッド女優。楽屋落ちやごく私的なエピソード、さらにはオカルト的な脱線などが多くちょっとしんどかったがいずれも体験者の記憶なので立案の参考になる部分はある。いずれも絶版なので私はアマゾンで中古を手に入れた。
パリからサン・ジャン・ピエ・ド・ポーまで
9月8日未明のシャルル・ドゴール空港。さしもの巨大施設でも、さすがにこの時間に人影はまばら。私達はいかにこの空港が巨大で分かりにくいかと脅されていたのでプリントアウトしたフロアマップを準備していた。それを片手にモンパルナス行きバスの発着スポットを探す。ようやくたどり着いたが今度は切符の買い方が分からない。
売り場は無人で無機質な販売機がポツンとあるだけ。表示はフランス語だけ。モンパルナスらしきスペルを見つけてさあ買おうと思っても現金の投入口がない。どうやらクレジットカードしか使えないようだ。慌ててバッグからカードを取り出そうともたもたしていると脇にいたアフリカ系の若い男性が見かねたのか「クレジット・オンリー」と言いながら自分のカードを差し込んで2枚の切符を買って私達に渡す。礼を言って立て替えた30ユーロを渡すと彼は足早に立ち去った。妻は「なんと親切な人だろう」と感激した様子。
ところが始発バスに乗り込もうとすると運転手がその切符は違うと言う。なんと彼から渡されたのは駐車券だった。結局、現金払いでやっとバスに乗れた。
初めは到着早々にやられたかと思ったが、確かに彼がカードで自販機から買ったのは見ている。彼がボタン操作を間違えたか、私達が駐車場から出庫しようとしていると勘違いしたかのどちらかだろうと、善意に考えることにした。いずれにしても30ユーロ程、余計な出費をしたが翌日にはほぼ同額を取り戻すことになる。
モンパルナス駅に着いたのは朝7時半。予約済のTGV出発まで約3時間ある。
ヨーロッパは何度か旅行しているが本格的な個人旅行は未経験だった。その為、慣れるために大して関心もないのにわざわざハワイに一週間滞在したこともあったが日本語が通用してしまうハワイではあまり役に立たなかった。
そこで何に手間取るか予想がつかないので時間に余裕を持って動いたがこれはいくら何でも早すぎた。おまけに駅にはコインロッカーという代物がないのでどこに行くのにもザックを下すことが出来ず私達はカフェで暫く時間をつぶした。
ヨーロッパの駅の日本のそれとの違いはまず向こうでは改札口というものがないことだ。プラットフォームがあるだけでそこは自由に行き来できる。切符の売り場はあるが始発の自由席であれば乗車してから車掌に行先を告げて料金を払えばいい。
それと面白い事がもう一つ。パリの主要駅の一つであるモンパルナス駅には何本もプラットフォームがある。だから乗客は自分の列車が何番線から出るかを巨大な電光掲示板を見て知るのだが、そこに掲示されるのは出発の15分前と決まっている。駅員に聞いても「時間が来たらあそこに表示するからそれまで待て」というだけで教えてくれない。というか彼等も多分、知らない。
何とも不便だと思ったがコインロッカーやベンチがないことを併せ考えると、海外の人は列車の発車時刻ぎりぎりに駅に行くのが常識なのではないかと結論付けた。
それにしても早朝とはいえ、9月の初めだというのにモンパルナスの寒さには驚いた。写真のように既に冬支度の人も多い。つい一週間前まで夏のバカンスだったとは思えない。
いつまでもカフェにいるのも気が引けるのでカメラを取り出して駅の回りを散策した。モンパルナス周辺は東京でいえば上野あたりに近いか。古都らしい情緒はなく、かといって賑わいにも乏しくシャッターを押す意欲はうせた。
印象に残るのは意外にも喫煙率が高いこと。しかも女性でも路上喫煙を多く見かけた。彼等は吸殻を平気で投げ捨てるし、いたるところに犬の糞は落ちているはで花の都パリに対する憧れは急速に色あせてしまった。
ようやく我々の列車の発車時刻が迫った。駅員の予告通り、きっかり15分前に出発ホームが表示される。ヨーロッパの時刻表はあてにならないと聞いていたが意外と正確だ。
連結車両の長いのには呆れた。20両はあったと思う。先頭から順にたどって自分の乗る車両までたどりつくのも大変だった。皆、重いトランクを引きづって足早に駆け込む。しかも案内のアナウンスは一切なし。15分の間に自分で判断し、自分で処理しなければならない。サービス過剰に甘やかされた日本人には戸惑うことばかりだ。
高速鉄道と聞いていたがゆったりとした静かな走りで速さは感じない。ただ殆どノンストップだ。というよりも駅が殆どない。1時間以上走っても駅らしきものを通過しない。バイヨンヌまでは5時間の予定だ。
飛行機の中での私の睡眠時間は正味2~3時間という所だった。そのあとも空港に着いてから一切、寝ていないが列車に乗っても全く眠気を感じない。途中、キオスクで買ったサンドイッチを食べる他は車窓を眺め続けた。パリを抜け出してからはなだらかな丘と田園、そして忽然と石造りの家が寄り添う村が現れては消える単調な風景が続く。しかし飽きない。私はヨーロッパに行くたびにこの風景に惹かれる。
バイヨンヌの駅で明日のサン・ジャン・ピエ・ド・ポー行きの始発時間を調べてから予約したホテルに向かった。
ヨーロッパ最初の宿泊先はアメリカ資本のビジネスホテルチェーンだ。チェックインして部屋にザックを下す間もなく私はスマホを持ってロビーに下りた。フロントでWi-Fiのパスワードを知らされたので早速、試し打ちするためだ。
実は今回の旅がせまる頃、私は携帯電話を買い替えるかどうか頭を悩ましていた。それまではガラケーだったのだ。私はパソコンもデスクトップなのでキーボード派だ。だからスマホのあのタッチ&スクロールの感覚に抵抗があった。だけどヨーロッパで調べ物をするのにガラケーでは心もとない。それで三か月前に遅まきながらスマホビギナーになったばかりだ。
入力もおぼつかない。舌打ちしながらもやっとヨーロッパ発の最初のメールを英会話スクール仲間に発信した。日本では使う事のないWi-Fiへのアクセスも分かったし、モンパルナス駅の写真も添付できた。これで明日以降、サーバスのメーリスにも投稿できると安心し、妻を町に連れだして川岸のオープンテラスで夕食をとったあとやっと眠りについた。
翌朝6時半にまだ暗い駅に着くがやはり駅員はおらずに例のクレジットカードしか使えない券売機があるだけ。しかもサン・ジャン・ピエ・ド・ポー行きの列車表示がない。
始発時刻は前日に確かめている。しかしその時間の列車の行先のスペルはどう読んでもサンジャックではない。周りにいたおじさんに聞くが彼が直通は無い筈だと言う。そんな筈はない。昨日、駅員に確かめている。
ホームに二両編成の列車が止まっているのでそれに乗り込む。他に列車はないが看板に記された行先は見たこともない駅名だ。
不安になりホームにいた駅員に聞くと、その列車に乗れと言う。やがて一目で巡礼者と分かるザックを担いだ人達が数人、乗り込むので再び席につく。
運転手と車掌が乗り込み発車する。私達は切符も買ってないので車掌が回るのを待つが、車掌は運転手とべちゃべちゃ話し込んで客席に来る様子がない。
それにしてもヨーロッパで呆れるのは男も女もよくしゃべることだ。一体、朝から何をしゃべっているのか?しかし仕事しながら実に楽しそうだ。
僅か二駅目に止まったところでエンジンを切る。エッと思っていると乗客が皆、下りだす。やっと車掌が顔を出すので聞いて見ると、「あそこのバスに乗って。皆待っているよ」と呑気なことを言う。
バスの運転手に切符がないことを言うが、「自分は知らない。とにかく乗って」と信じられない答え。
どう計算しているのか乗客分で丁度良い席数のバスでサン・ジャン・ピエ・ド・ポーに向かう。
道路は鉄道線路と平行している。途中で線路は外され、なんと工事中。数キロに渡って線路を入れ替えているようだ。どう考えたって昨日の時点でサンジャック行きの列車がないことは分かりきったこと。一言の説明もない。
終着の停留所で乗客を降ろすとそっけなくバスは折り返す。一切、切符を買う機会はなかった。こうして不本意なかたちで昨日の損を取り返した。
<参考>
フランス国内からサン・ジャン・ピエ・ド・ポーに向かうルートはバイヨンヌ経由だけでなくボルドーから入るルートもあるとのことだが詳細は各自で調べて戴きたい。
コメントをお書きください
舟津 紘一 (火曜日, 20 10月 2015 07:25)
大変楽しく読ませていただきました。近いうちにお会いできることを楽しみにしています。
東本泰行 (金曜日, 30 10月 2015 09:42)
長っ!!
おくの (日曜日, 25 12月 2016 19:42)
私も2015年の春にフランス人の道を歩きました。
個人で行く海外旅行は初だったので大いに緊張しました。
特にモンパルナス駅では大ピンチでした。
今は良い思い出になっていますが。
これから楽しく読ませてもらいます
おくの (日曜日, 25 12月 2016 19:47)
すみません、続きはどこで見られますか?
HP管理者:吉岡秀明 (日曜日, 25 12月 2016 20:27)
おくの様
つづきは、草の根国際交流のトップページの右側にある
バックナンバーをクリックしてください。
そのリストの中で見たい記事を選んで下さい。
おくの (木曜日, 05 1月 2017 19:14)
ありがとうございます。
見つかりました。