初日-9月9日(水)サン・ジャン・ピエ・ド・ポー→オリソン(8km)
バスは我々を列車が来ない駅の停留所に降ろすとさっさと立ち去る。スペインの駅は町や村の郊外にあることが多い。我々が残された所に町民の姿を見かけない。周辺にバールもなく列車も暫く運休なのだから当然だ。ポツンと案内板が立っているが大体、自分たちの居る場所がその地図のどこにあたるのか分からない。
皆はまだ多少緊張しているのか寡黙だ。しかし、全員目指すところは同じなので誰ともなくまあこっちの方だろうと歩き出すと、皆その後について歩き出した。
バスに乗ってきたうちのほとんどの人がこの町から巡礼をスタートさせるので、まずこの町の巡礼友の会の事務所に立ち寄る。クレデンシャルを発行してもらうためだ。
我々はクレデンシャルを既に持っているがそこに出発地のスタンプを刻印して貰うことが必要なので、やはり皆についていき事務所に入った。
ボランティアの叔母さんは地図を見ながら、通じてようが通じてなかろうがおかまいなしにフランス語でべらべらとしゃべる。間違いやすい個所と危険な個所をいくつか注意し、オリソンまでの坂はきついがそこから先は少し楽になると、どうもそう言っているらしい。
クレデンシャルにスタンプして貰い、ついでに1ユーロの寄付でほたて貝をゲットした。
紐でこのほたて貝をザックに結んで巡礼者のシンボルとする。昔はこのほたて貝と杖、そして水筒として使う瓢箪が巡礼者の三種の神器だったという。巡礼路の沿道では巡礼者は昔から厚遇されているのだ。
【苦労を共にしたほたて貝】
午前9時30分。町のシンボルである城壁の門をくぐっていよいよ800kmに及ぶ巡礼のスタートだ。私は大きくバーモス!(スペイン語で「さあ行こう!」)と叫んだ。
【バーモス!】
サン・ジャックからは二つのルートがあるが我々は「ナポレオンルート」と呼ばれる山岳ルートを進む。
すぐに小さな町を抜け両側に牧草地が広がる田舎町を歩く。時々、車が我々を追い抜いていく。巡礼路のかなりの部分が山岳地帯を通るがここの道と同じようにアスファルトの自動車道を歩くことが多い。
ここはまだフランスなので巡礼路を示す道標は赤と白のペンキで示されている。しかし、殆ど分岐が無いので道に迷うことはなさそうだ。
だんだん傾斜がきつくなってくる。所々でザックを下して水を取る人がいるが自分はばかに調子がいい。
妻に「少し休む?」と聞くと「大丈夫」との答えだ。
何組か前を行くグループを追い抜いた。実に様々な国から人々がここに集まっている。英語だけでなくフランス語、ドイツ語など・・・。どこの言語か分からないものも多いが私達にかける言葉は共通している。「ブエン・カミーノ」。スペイン語で「良き巡礼を」という意味でこれが巡礼者同士の合言葉だ。
アスファルト道をショートカットする未舗装路に入る地点でふと振り向くと妻が大きく遅れていることに気が付いた。二本のストックに頼るように体をもたせかけ肩で息をしているのが遠くからも分かる。これはまずいなと足を止めて待つ。妻は下を向いて歩いているので私に気が付かない。
追い抜く外国人が「大丈夫か?」と声をかけるが、妻はうなずくのがやっとの様子だ。ようやく妻が追い付く。「どうした?バテた?」と聞くが妻はそれには答えず、「私ゆっくり行くから。パパ先に行って」と言う。
一人の方が楽だという言い方だ。私も山でバテたことは何度もあるが、そんな時に周りに気をつかわれるとかえってつらい。ここは先に行った方がいいと思い、振り向いて歩き出した。
そこからどんどん傾斜がきつくなる。しかも好天なので体がほてるように熱くなる。振り向くと遠く出発点のサン・ジャックを望む素晴らしい風景がひろがるがそれを楽しむ余裕がなくなってきた。
15分程、登ると再びアスファルトの道に出て、少し先に小屋が見える。着いたか!と思い近づいていくと掘立小屋にすぎずとても人が寝泊まりする様子はない。
アスファルトは歩きやすいが照り返しがつらい。しかも足首にこたえる。こういう時は緩い登りであるのがかえって助かる。これが下りだと膝にも負担がかかり途端に道のりを長く感じるようになる。
すでに出発して3時間が経過。もういくらなんでも着く頃だと思うと前方から女性が空身で歩いてくる。どうやら先に小屋に着いて遅れた仲間を迎えに行くようだ。
「イクス・キューズ・ミー。オリゾンはどこ?」と聞くと、「そこ。もう2分よ。がんばって!」と心強い返事。確かに角を曲がるとアルベルゲの佇まいが姿を現す。道端には巡礼者が連れて来たのか馬が数頭つながれて草を食んでいる。
巡礼の方法は徒歩だけではない。公式に巡礼証明書が貰える方法としては他に自転車と乗馬が認められている。
オリゾンは巡礼路にポツンと独立したアルベルゲで周りに集落は全くない。このきつい峠道を登る巡礼者の便宜を考えて作られたのだろう。
すでにチェックインが始まっていたので宿泊料を払ってクレデンシャルにスタンプして貰ってから事情を話してザックを預かって貰った。
妻を迎えにとって返す。アスファルト道を戻りかけるとタクシーが乗り付けた。けしからんことにタクシーで来る奴もいるのだ。いくつか坂を超えても妻は姿を現さない。まさか?初日でリタイア?という不吉な思いが頭をかすめる。
一方で「だから言わんこっちゃない」と頭にもくる。私は妻にせめて海外で使える携帯に機種変えして持って来いと言うのに妻はいう事を聞かなかったのだ。こんな時こそ必要じゃないか。
やっとよろけながら登る妻が見えてホッとした。この暑いのにアノラックも着たままだ。私を認めて心底ホッとした顔になる。後になって彼女が言うのにはこの時私が天使に見えたそうだ。彼女のザックをしょって再び峠道を登るが、空身になっても妻の足取りは重いし息が荒い。
オリソンに着くと何人か妻を追い越していった人たちが彼女を気遣って声をかけるが、妻ははぁ~、はぁ~と荒い息を吐きながら微笑むのがやっとだった。
私達が案内されたのは10人部屋だった。すでに多くの人がくつろいでおり挨拶を交わす。
普通、二人連れは二段ベッドの上下をあてがわれる。疲れ切った妻が下段、私が上段と決めて梯子を登ろうとすると先に来ていた若い女性が何やら私に話しかけてくる。黒髪でハッとするような美人だ。どうやら「私のベッドと交代しましょうか?」と言っているらしい。彼女は早く到着してすでに下段ベッドを割り当てられていたがヨレヨレの老人が上段では大変だろうと気遣って自分が譲っても良いということらしい。何という優しいお嬢さんだ!と感激するがそれでは男がすたる。丁重にお礼を言ってお断りした。
見栄をはったものの疲れ切った足に梯子はつらかった。やっと登って足を伸ばそうと今度は窮屈な姿勢で腰が痛い。
優しい女性の出身はブラジル、他にやはりブラジルからの夫婦とオーストラリアからの中年女性の二人連れがその部屋の先着組で、私達の後に初老のアメリカ人夫婦が到着した。後になって妻に聞いた話だがそのアメリカ人夫婦の奥さんの方が本当に疲れ切っていた様子でかのブラジル美女が彼女に下段ベッドを譲ったそうだ。
妻はシャワーを浴びると寝袋に潜り込んでたちまち寝込んだ。夕食までまだ相当に時間があるので私はデッキに出てビールを飲みながら今日を反省した。
私はさんざん山仲間から言われていた言葉を思い出す。
「最初はゆっくりすぎる位、スローペースで歩け。ここで失敗するとつぶれるぞ」
私は気負っていてこの言葉を忘れていた。巡礼者があふれていることも私の気負いを後押しした。どこかに負けてたまるかという競争心があったのだ。本来は巡礼なのだから相手は自分自身だけだ。それが私の頭の中ではまるで勝負の場でもあるように変容していたのだ。自分も後半、足が止まってしまった。妻はそんな私について行こうとしてオーバーペースになってしまった。
私を先に行かせた後、妻はいよいよ苦しくなり吐き気までしてきたので手前の小屋でしばし寝ていたという。妻には本当に悪いことをした。
夕食前に妻は起きだした。まだ顔は青いが元気を取り戻した様子で同部屋の例の若いブラジル美人を褒める。
七時になり若い女性スタッフが大きな声で夕食を告げる。
食堂には三列に長テーブルが並び何本か赤ワインのボトルが置いてある。数えると席数は30程。ここで一堂に会しての夕食が始まる。
席は自由でカナダから来たという女性の二人連れの前に私達は座った。いたる所で自己紹介の会話が交わされている。
一品目の豆スープはなるほど絶品だった。深い味わいの暖かいスープが疲れた体にしみていく。
私は用意したサーバスの名刺をカナダ人の二人に渡した。彼女らも名刺を返す。実業家らしい。会話が弾むときの妻は元気な証拠だ。私の隣で向こうの男性と話し込んでいるので私は少し安心する。
二品目の鳥料理がすすんだ頃、若い女性スタッフが何やらフランス語で挨拶するが私にはなんだかさっぱり分からない。するといきなり向かいのカナダ人女性が手を挙げ、「じゃあ。私から」と言って自己紹介を始めた。
オリソンが巡礼最初の夜だという人は多い。そこでこの機会に同じ道をこれから歩く者同士を少しでも馴染みにしようというアルベルゲの粋な計らいだ。
外国人のスピーチには必ずウィットが含まれる。一人が話し終わるたびに笑いが広がる。
とうとう私の順番が来た。私の英語は初心者レベルだ。ここはシンプルにやるしかないと思って、「I’m from Japan. My wife is Christian. My wife said “I should go to Santiago de Compostela.” So I’m here.」とやったら何故かこれが大受け。
次いで妻は私達が結婚40周年だと暴露したものだからすっかり有名人になり、その先、巡礼仲間とすれ違う度に多くの人から‘40周年’ と声をかけられるようになった。
後日、このことをメールで報告すると友人の一人から「〝神にではなく妻に導かれてここに来ました“と解釈されたのだろう」との返事を貰い納得した。
ワインもたらふく飲めて最高のディナーだった。
ベッドに戻った途端に来た!足がつる。救急セットからバンテリンを取り出し塗りたくるが20分程、しってんばっとうの苦しみだった。アルベルゲに着いてからもバタバタしていてストレッチを忘れていたのだ。
<参考>
サン・ジャン・ピエ・ド・ポーからは二つのルートがある。一つは私達が歩いた「ナポレオンルート」。もう一つは国道を歩くルートだがこちらはエマージェンシールートで好天の時にそこを選ぶ者は少ない。
ナポレオンルートを行く以上はぜひともオリソンに泊まることをお勧めする。体が楽なだけでなく本文に紹介したようにここで巡礼の雰囲気にまず染まり仲間を増やすチャンスでもある。
オリソンの予約は下記サイトから。
refuge.orisson@wanadoo.fr
ただし、レスポンスは遅い。三日は辛抱して待つように。またすぐに半金を請求される。それと当日は夕方6時30分には到着することが必要。
2日目 9月10日(木)オリソン→ロンセンバージェス(17km)
アルベルゲの朝は早い。5時には誰かしらがゴソゴソ動き出す。寝袋をたたみパッキングを確認しトイレをすますなどやることは多い。7時に出発するとしたらそれでも遅いほどだ。
私が寝袋をたたんでいると、オージー女性が「It’s raining」と言う。
全く気が付かなかったが引き戸を開けると真っ暗な中、かなりの勢いで雨が降り注いでいる。
昨日に続いてまた試練かよと思うが、腐ってはいられないので合羽を取り出して羽織る。
懐中電灯で道を照らしながら昨夜の食堂に行くとすでに朝食をとり始めている。ヨーロッパの朝食は簡素だ。固いパンにコーヒー、これに果物があれば上等だ。
皆、朝食をすませた者からばらばらとヘッドライトを照らしながら星空の下を出掛けて行く。
妻は「昨日よりはずっといい」と言う。幸い私達が出る頃には雨は小雨にかわり、夜が明けると霧が立ち込めるだけで雨はすっかりと上がった。
この日の霧の中の稜線歩きは今回の旅の中でも最も印象深い風景として残っている。周りは放牧地が続くのか牛のいななきと羊の鳴き声が混じる。霧が晴れると頭上の稜線を馬が走る。そんな映画の一シーンのような絵が続く。羊飼いにとっては既に午前中の仕事が終わりなのか羊の群れが囲いに追われる所も目撃した。
やがて霧も晴れ、ピレネーの山容が姿を現す。私はもっと荒々しい風景を想像していたが実際のそれは緩やかな稜線をもつ東北地方の山々に似ている。
昨日の反省から今日は妻の後を歩く。その上にいたる所で立ち止まってシャッターを押さざるを得ないので今日は私の方が遅れがちだ。妻の足取りは打って変わって軽い。
歩き出して2時間過ぎたころ、見晴らしのいい所で路肩に座り山裾に脚を伸ばして休んでいるアジア系の女性を見つけた。丁度よい頃なので一休みしようとちょっと離れたところにザックを下すと彼女が話しかけてきた。
「日本の方ですか?」
綺麗な日本語だ。私は例によって韓国の人かなと思っていたが日本人らしい。
「あっ日本の人。初めて会った」と言うと、
「いや両親は日系カナダ人ですけど私はカナダで生まれました」と答える。
外国にいると不思議なことに出会う人の国籍にこだわる。特に日本人が少ない今回の巡礼路では日本人が懐かしい。
大学生の彼女は単独で歩いているらしい。でも昨夜のオリソンでは見かけなかったからもしかしたら今日はサン・ジャックから?と聞くと、そうだと言う。
ということは麓の町から4時間余りでここまで登ってきたことになる。やはり若さには勝てない。
ピレネーをバックにお互いのカメラで写真を撮りあうと彼女はお先に失礼しますと言って颯爽と登って行った。
彼女のルーツである日本にこういう自立した女子学生がいるだろうか?何が違うのかと考えざるを得なかった。
ガイドブックにある通り、目印の十字架から山道に入る。イバニエタ峠は最初の難関と聞いたが下から見上げる限りは緩やかな丘にしか見えない。実際に歩きやすい。散々、トレーニングで歩いた箱根の東坂の方がこの何倍も苦しい。
しかしそれも好天だからで回りに人家がほとんどないので悪天候の時は遭難事故も多いと聞いている。「星の旅人たち」で描かれた遭難もこの辺という設定だ。
やがて森に入り空気が更にひんやりと心地よい。30分も歩けばローランの泉に出るはずだ。
実は日本にいる頃から楽しみにしていたことがこの先にある。国境を人生で初めて足で超えるのだ。『ローランの泉を超えたところに柵がありそこから先がスペインだ』とガイドブックに記されている。
その言葉通り泉が沸き出ている。ここがローランの泉に間違いない。しかし、国境らしきものはどこだ?本当に木の柵があるだけだ。これが国境?これなら子供の頃、実家で隣と行き来した木戸と変わらない。なんとも拍子抜けだった。気が付いたら道標は有名なスペイン式のほたて貝に変わっている。
【ローランの泉を飲むこの馬の国籍はフランス?それともスペイン?】
それにしても今日は二人共、調子がいい。ヨーロッパに入ってから不思議なことが一つあった。
実は渡航を控えた八月に私はクーラー病からか咳が止まらなくなった。それが妻にうつったのか彼女も乾いた咳が続いた。いつまでもしつこくマイクロプラズマ菌を疑ったほどで二人共、処方された薬を持参していた。それがヨーロッパに入った途端に、嘘のようにピタリと止まる。よく言われるが緊張すると脳が緊急事態の信号を送り体をしゃんとさせるのだろうか。私も妻もすっかり巡礼モードに切り替わっている。
峠のピークが見えてくる。窪地に何人かが腰かけ、そのうちの一人の大柄の青年が何か大きな声で下に呼びかけている。
私達はピークを過ぎてそのまま休まずに今度は坂をおりた。10mほど下ったところで道は分岐し道標は左を指しているので前を行く妻が左に折れようとする。しかし道標の横にペンキで手書きした矢印が右を向いていることに私は気が付いた。
「ちょっと待って。右じゃないか?」と妻を呼び止める。すると上から「Turn right」との大きな声が降ってくる。見上げるとさっきの青年だ。その横でオリソンで一緒だった母娘も笑いながら右手にゆけと手を振っている。
巡礼路では互いが助け合うのだ。
【これがスペインでの道標】
森を抜けるころに再び雨が降り出した。峠を越えると天候が、がわりと変わるのは地球上何処でも同じだ。
本降りになりそうなので、まだしめったままの合羽をかぶる。
やがて砂利道に出た。雨の中、森の向こうに大きな白い建物が見える。ロンセンバージェスの修道院だ。深い森に浮かぶその姿は映画「サン・ジャックへの道」で一行が宿泊先を見下ろしてはしゃぐシーンのショットそのままだった。
そんなに遠くに見えなくても例によってそうは問屋がおろさなかった。
砂利道が長い。知らず知らずにうつむいて歩いたら突然、後ろから口笛が吹かれ「そっちじゃない!」という声がかかる。振り向くとまたさっきの彼だ。
砂利道からそれて草むらに入って行く。急ぎ戻ると草の下に隠れた道標を認める。先に行く彼は知り尽くした道のようにどんどん進んでいる。ここはついて行くしかない。
再び砂利道に出るがそれを突っ切って丘を登って行く。道標が見当たらない。半信半疑で立ち止まっていると今度は砂利道を引っ返してくる中年男性がいる。
「ノーサイン。ノーサイン」と叫んでいる。どうやら砂利道を行っても道標がないということらしい。ここもまた先に行く若者を急ぎ追いかけた。
彼が行くのは道というよりは牧草地の中を横切る感じだ。しかも斜面をトラバースするのに近いので歩きにくい。靴は草の中にすっぽりうまり膝あたりまでぐっしょり濡れる。
滑り易いので妻が遅れだしそれを待つ私を中年男性が追い抜く。
霧が深く迷い易いと判断したのだろう二人は私達が追い付くのを待ってくれた。このまま四人で草地を抜けるつもりらしい。
二人の会話に耳を傾ける。若者はスイスから来たという。すると中年が「So you’ve used to be mountain」と言う。すると若者は中年がどこから来たのか聞き、イギリスという答えを聞いて、「So you’ve used to be bad weather」と応じた。
私はそれを聞いて大きく笑い、会話に割り込もうと思って「I’m from Japan. So I’ve used to be complex road」と言った。私は日本人なのでこういうややこしい道に慣れている、と言ったつもりだ。
しかし、二人は立ち止まり怪訝な顔をしている。滑ったらしい。
後で妻にこのことを話すと、そこは「I’ve used to be narrow road」と言うべきだったと言われた。
用途不明の東屋らしき建物があったので、暫くそこで雨宿りしたが一向に雨はおさまらない。仕方ないので雨の中を突進することにした。
ますます雨足は激しくなる。でも気持ちは晴れ晴れとしている。Singing in the rain と口ずさむ。
先に紹介したサイト「閑古鳥旅行社」でロンセンバージェスは、
『そこにあるのは巨大な修道院とその付属施設、および数軒のバル(スペインの食堂兼バー)だけである。あぁ、なるほど、ここは巡礼者の宿泊に特化した修道院なのだ。』と紹介されている。
まさにその通り、そこは修道院に巡礼者向け飲食店が数軒寄り添っただけの集落だった。
チェックインしてクレデンシャルにスタンプを貰う。そこで私はまたチョンボしたことに気が付いた。大事なクレデンシャルとガイドブックを雨の中、ズボンのポケットに入れたままだったのだ。クレデンシャルは見るも無残な姿に変容。受け付けのおばさんは呆れ顔で指で摘みながら押す場所を確認してスタンプしてくれた。
巨大なアルベルゲに二段ベッドが並ぶ。それが並行に二列ずつフロアを挟んで仕切られている。隣はどうやらドイツ野郎の二人だ。
私は昨日と同様に上段に登ろうとして気が付いた。柵がない!フロアにマットがひいてあるだけで手すりは頭上にあるだけ。これだと寝返り打った時にバランス崩したらそのまま2m近く落下して即死だ。
私は自分の寝相の悪さを自覚しているので妻に頼んで下段に寝かせて貰う。昨日と違って妻は身軽に梯子を登った。
少し休んでからすいているうちにシャワーを浴びることにした。昨日のオリソンではシャワーを浴びなかった。今日は雨に濡れた。このままでは風邪をひくおそれがある。
ヨーロッパを旅行したことのある方ならご存知の通り、こちらのシャワーブースには着替えの置き場もない。私は日本から持参した三角フックにアタックザックをかけその中に着替えを突っ込んだ。これは例の相談会で教えられた知恵だ。
今日は洗濯してもこの雨空では明日までに乾かない。脱いだ下着をもう一度はく。明日は三日連続で同じ下着を履き続けることになるが仕方ない。
夕食はちょっと離れたレストランだ。そこでは来た順にテーブルが指名された。席に着こうとすると妻が「あらっ!」と言って、先に座っていたカップルの女性に挨拶した。
聞くとシャワールームで妻が髪を乾かそうとドライヤーを借りた方だと言う。彼女はドイツ人で男性はルクセンブルグ出身のカップルだ。なんでも柔道で知り合った仲だという。
いかにもアスリートらしい赤毛の美人の彼女は今回この巡礼路を歩くのは『今年になってから』三回目だという。妻が『今までに』の間違いかと思って聞き直しても「いや今年で三回目だ」と言う。
レストランはアメリカ人で溢れかえっていた。日本では五月蠅い中国人観光客グループが目をひそまれるがヨーロッパでのそれはアメリカ人だ。なるほどテーブルの会話を聞き取れない程、甲高い声が響き渡る。
気持ちよく話していた赤毛美人がだんだん眉をひそめて「本当にアメリカ人って嫌」と険悪になっていったのを覚えている。
食事がすんだら後は寝るだけ、私は寝袋にくるまった途端に爆睡した。
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舟津 紘一 (月曜日, 26 10月 2015 14:04)
大変楽しく読ませていただきました。続編を楽しみにしています。