スペイン巡礼紀行 前篇その4      春日屋 誠

  • 5日目 913日 パンプローナ⇒ムルザバル(19.2km) 

     

 妻は私の20m程、先を行く。もう30分位振り返りもしない。しかもいつもよりかなり速くせかされたように歩いている。妻が怒っているのが後ろから見ていても分かる。

 パンプローナを抜ける巡礼路は町の郊外にある大学のキャンパス内を通る。そこは大学が管理するいわば私道のような所なので他と違って巡礼路の道標が少ない。私達は前を行くアメリカ人女性3人組について歩いていた。広いキャンパスの外縁をなぞるルートだが、あれこんなに左に曲がって行っていいのかな?と違和感を覚えたら、案の状、前の三人組がきょろきょろと周囲を見回している。私も暫く道標を確認していなかったことに気が付いた。


 三人組が地元の男性に道を聞いた。男性は私達のかなり後方の道を指し示した。どうやらキャンパスを抜け出す曲がり角を見逃していたらしい。やがて本来の道にもどったが20分程ロスしてしまった。

 ちゃんと自分で確認しないからよ!なんで前の人に盲目的についていくのよ!おかしいと思ったらなんですぐ人に尋ねないのよ!だいたいなんで今日に限ってガイドブックをザックにしまっていたのよ!と、妻の背中が叫んでいる。

 私が追い付けないのには妻が怒りにまかせて飛ばしていることの他にもう一つ理由がある。昨日までのスピードが出ないのだ。実は私には山歩きをするうえで大きな弱点がある。足首の関節が固く衝撃を吸収しきれないので疲れがたまりやすい。昨夜のアルベルゲでは足をひきずっていた。階段では手すりにつかまらないと危なくて降りられない。それが不思議と靴を履いてしっかり紐を結ぶと痛みは治まるのだが、それでもスペインも5日目になって蓄積した疲労を訴える足首をかばって両手に握りしめたストックに頼るような歩き方になる。

 流石に疲れたのか妻が一息入れたところで追い付いた。いつものペースで歩かないとばれるよと忠告しようとすると、あんなに早く起きたのに遅れたらまたベッドを探すのが大変じゃないと妻の怒りに更に火を点けてしまった。どうやら一昨日のスビリに懲りているらしい。道端で口げんかをおっぱじめた。長い旅なんだからキリキリしていたらもたないよ、と言うのが私。緊張感がないから無駄なことをするのよ、と言うのが妻。水掛け論だ。

 気が付くと二人の女性が足を止めて私達を見つめている。昨日位から彼等とは先になったり後になったりだった。とりなすようにどこから来た?と聞くので、日本と答えると驚く。それだけ巡礼路では日本人が少ないのだ。彼女たちはアルゼンチンから来ている。

 友人同士だと言うがこれ程、不釣り合いな二人も珍しい。年恰好だけは50歳前後で共通だが、一人は化粧も服装も派手で愚痴が多いのに対してもう一人は地味な服装で口数も少ない。それでも二人でいるのを見ると実に楽しそうだ。派手な方はしょっちゅう道草して写真なんぞを撮っている。もう一人はじっとそれを待っている。

 そう言えばあのオーストラリアの二人も同じような雰囲気があった。ヨナは美人だが少しわがままでマイペース。ゲイルはそれをじっと見守っている。

 

 アルゼンチーナ二人としゃべったことで妻の気も少し収まったようだ。今度はいつものペースで歩き始めた。やがて今日の難所が始まった。両面を刈り取ったばかりの麦畑に囲まれて巡礼路は真っ直ぐ丘の頂上まで伸びている。一人のアメリカの若い女性が足を引きずっている。前日、ぬかるみで足を挫いたらしい。かなりの美人なのでどこかで若い親切な男性が現れるのを祈るばかりだ。

 気が付くと韓国のグループに囲まれていた。彼等はツアー客だ。カソリック信者が多い韓国では数年前からサンチャゴ巡礼がブームだと聞いている。ツアーでは荷物をバスが次の宿泊地まで運んでくれて、彼等は一日分だけの軽装で主な区間を歩く。宿泊は勿論ホテルだ。サンチャゴまで二週間の行程だそうだ。

 グループの中の一人の女性が話しかけてきた。年に一度は九州の友達を尋ねると言う。最近、日本語の勉強を始めたそうでつっかえながらも日本語で話す。それにしても韓国の人は初対面でも自分の信念とか心情とかの深~い話をするのだろうか?彼女は毎朝を今日が人生最後の日かもしれないと覚悟して始めるそうだ。まだ60歳前のように見えるが随分、達観しているなと感心していると突然、話題を変えて来た。

「安倍さんは韓国のこと嫌いなんですか?日本の人で韓国のこと好きな人多いのに安倍さんは嫌いなんですかね」

 安倍さんとは勿論、安倍首相のことだ。そちらの大統領こそどうなの?と言いたいのを抑えて、「さぁどうかな?別に嫌いで言っているわけじゃないと思うけど」とか言って適当にごまかした。

 どんな場でも政治と宗教とセックスの話は避けた方が無難だ。

 

 段々、傾斜がきつくなってくる。さっきまで遠くに並んで見えていた風力発電の風車群が頭上に迫ってきた。20m以上の高さがあると見える崖の上に何人もの巡礼者が並んでこちらに手を振っている。ひゃ~、あそこまで登るのかと一瞬ひるむほどだがとりついてしまえばそれほどの苦労もなくピークに立った。

 ぺルドン峠だ。有名なオブジェが並んでいる。ここで皆、思い思いのポーズで記念写真を撮る。

 

 尾根を走る国道を渡ると途端に急な下り坂だ。しかも岩がゴロゴロとしており歩きにくい。ここを下りきれば一時間程で今日の宿泊予定地ウテルガに着く。

 それにしてもすごい数の巡礼の列だ。このうちの何割がウテルガに泊まる予定なのだろうか。時間を考えたら相当な数になりそうだ。またベッドの争奪戦が始まるのかと少し不安になる。

 そんなことを思っているうちにいつの間にか道は平坦になり遠くウテルガの尖塔も見えて来た。難所と聞いていたが大したことないな思った。その夜、私は山仲間に「ピレネーの山越えも北アルプス縦走に比べたら〝へのカッパ〝です」とメールした。

 

 ウテルガに入る手前で一人の若い女性がチラシらしきものを手に持って立っている。ホットパンツにスラリと伸びた脚がまぶしい。スペインの女性は日本人よりも大人びて見えるが彼女は多分まだ高校生だ。

Do you speak English?」と彼女は聞いた。持っているチラシはどうやらペンションのものらしい。客引きをしているのだ。

 英語は少し分かると答えると彼女はペンションの説明を始めた。夕食と朝食付きで個室も準備できてプールもあるという。すでに夜は肌寒いこの季節にプールを使う人はいないと思うが個室はありがたい。宿泊費は少しはるがここまで予定したよりもずっと安くあげてきたので多少の余裕はある。早速、予約の電話をしてもらった。

 そのペンションはウテルガの先の隣村にある。更に3km近く歩かなければならないがここまで来たらそれ位、それこそ〝へのカッパ〝だ。

 宿泊先が確保できて妻は急に気が大きくなったのか洒落たオープンテラスを見つけるとここでゆっくり食事していこうと言い出した。

 珍しいことに昼からピルグレムメニューが頼める。しかもなかなかグレードが高い。一皿目に頼んだアスパラガスの美味しかったことは今でも鮮明に覚えている。しかもボリューム一杯。これで2皿目の豚肉料理もあわせて15ユーロ程度だったと記憶している。とにかくスペインの物価の安さは感動的だ。


隣村のムルザバルに向かう道中では今度は妻が韓国人の男性につかまった。午前中の女性と同じグループだと思われる。自分の仕事のこと、家族のこと色々、一方的に話し出したら止まらなかったという。多分、彼を待っていたと思うバスを通り越しても気が付かない。後ろから同じグループの人が大声で呼んでやっとそれじゃあねと言って戻って行った。 

彼がいなくなったら今度は私達まで目標を通り越したらしいことに気が付いた。巡礼路には様々な人が集まるので毎日何かしらのハプニングがあるのが楽しい。

 

そのペンションは広い庭をもつ一戸建て住宅でパンフレット以上に清潔で洒落た佇まいだった。どうやらパンプローナに住むお金持ちが別荘を改装して営んでいるようで休みの日は三世代総出で手伝っているらしい。運良くその日は日曜日で子供達も大勢いて賑やかだ。先ほど、客引きしていた女性もここの娘だという。

それにしてもスペインでは子供たちが大人の仕事をよく手伝う。村の店先で親の荷卸しを手伝っている小学生を見ることはざらだ。日本の特に都会ではもう見かけない風景だ。

妻はその娘とペンションで再会したので「今日、あなたと逢えて本当に良かった」と言うと、彼女は感激して妻の頬にキスしたという。

 しかもそこの二代目のご主人が大の日本びいきだったのも気分がよかった。今までの巡礼者がお礼として残して行った小物がボードに飾ってある中に日本の神社のお守りがあった。そこでは更に嬉しい再会があった。妻にペンダントをくれたゲイル&ジョナだ。

 

その日の夕食がデッキのテーブルを囲んで始まった。巡礼者同士が集まる席はオリソン以来だ。

喧嘩に始まり、新たな仲間と知り合い、峠を越えて、絶品のランチを食べて、ゆっくりと休めるベッドを見つけて、嬉しい再会のあった忙しい一日が終わった。

 

<参考>

スペイン巡礼の予算は一人当たり一日40ユーロ(円換算で5000円余)も考えておけば充分だ。まずアルベルゲに泊まる限りは宿泊費は多くても10ユーロ。朝食は前日にパンと飲み物を買っておくとして精々3ユーロだ。そんな馬鹿なと思うかもしれないが大きなクロワッサンが3つで1ユーロの店もあった。昼に少し贅沢しても15ユーロ。夜はペリグレムメニューで10ユーロ見当。二人連れなら三日に一回はペンションに泊まる余裕がある。

会う人ごとに「こちらは物価が安いね」と言うと、誰でもうなずくが外国の方は私達ほどの感激はない様子。ブラジルなどはスペインの1/3だという話を後で聞いた。考えてみれば日本が高すぎるのだ。特にホテルの宿泊費だとか外食費だとか観光関連の品目が高い。これで観光立国を目指すなんて絶対に無理だと思う。それにも拘わらず日銀の総裁は年間物価上昇率2%を目標とすると訳が分からんことを言っている。日本という国はどこか基本的な仕組みが間違っていると思う。

 


 

  • 6日目 914 ムルザバル⇒シラウキ(14.9km

     

巡礼路の本道はムラザバルから隣村のオバノスまで車道を進む。しかし、今日は3km

け回り道をすることにした。ムラザバルの南にあるエウナテ聖墳墓教会を見学するのだ。

 私達の10mほど先の暗闇にお馴染みの二人を見つけた。ゲイル&ジョナだ。彼女達も寄り道をするらしい。暗い中、四人並んで歩いた。

 しばらくすると左肩から太陽が昇りしらじらと世が明けて長い下り坂にさしかかった。すると突然、ヨナがゲイルに声をかけると二人共、ストックを小脇にかかえて唄いながら小走りを始める。軽く膝をまげ腰でリズムをとって「I wanna go to Sanchiago, I wanna go to Sanchiago♪♪」と口ずさみながら下って行く。

 オーストラリアの子どもは皆、ガールスカウトやボーイスカウトのキャンプで楽に山を下る方法として教わるらしい。

 これに妻がすぐにはまった。今度は三人で歌いながら駆け下りて来る。私は振り向いてシャッターを押したが極端な逆光で皆さんにお見せできるものではないのが残念だ。

 ヨナが今度は携帯電話を取り出してどこかに掛けている。オーストラリアだ。

「今、日本の素敵な夫婦と一緒に歩いているの。代わるから」と言って、いきなりケータイを妻に差し出した。妻はえっと戸惑った顔を一瞬しながらもケータイに話しかけた。

Hello. It’s Harry’s speaking

 ところが返ってきたのは流暢な日本語で「ハジメマシテ」。

 電話の相手はヨナの長男でつい一年前まで金沢に留学していたという。

 道々の話ではヨナは離婚して息子と娘の三人暮らし。息子は自分に似てとってもいい子だが娘は元夫にそっくりでどうしようもないとのこと。ゲイルは幼い頃からのヨナの親友で浮き沈みの激しい友を静かに見守っている様子だ。

 それにしてもどういう訳だか巡礼路には女性二人組があふれているが男性二人というのは皆無だった。

 

 透き通った朝の空気の中で教会に着いた。見事な八角形だ。しかし、なんと月曜日は休館日で中は見学できない。仕方ないので教会をぐるりと回って一通り写真を撮って出発しようとしたがヨナが現れない。


 裏を覗くと昇りきった太陽に向かって太極拳のポーズだ。両腕を掲げたまま左足をゆっくり上げて下す、左右の腕の位置を交代させると次は右足をあげ・・・。実にゆっくりとした動きだが重心がぶれないのは流石だ。しかしまだまだ待たされそうだ。

 常に人を気遣うゲイルが「先に行って。すぐに追いつくから」と言うので私達は腰を上げた。

 

 「王妃の橋」で有名なプエンテ・ラ・レイナまでは下り坂が多い。その度に妻はオーストラリア直伝のダンシング走行を繰り返した。

宿泊地シラウキに着いたのは1時。シラウキは日本語版ガイドブックには『丘全体が古い街並みに覆われており、迷路のような細い路地を上っていくと、中世の世界に迷いこむかのようだ』(49頁)と詩情あふれる紹介をされている。

ここのアルベルゲは2時にならないと開かないシステムだった。私達が一番乗り。扉の前に妻を留守番に残して近くのスーパーに昼食を買いに行く。

 階段を下りると広場があるがなんかざわざわしている。そろそろシェスタの時間なので店じまいを始めるはずだが珍しくスペイン人が忙しく働いている。ステージの準備をしているのだ。後で知ったことだが今日からキリストの由来(なんだったかは失念した)にちなんだフェスティバルが一週間続くのだ。今日ばかりは眠ったような町が覚醒するらしい。

 お祭りの時はいつもの習慣であるシェスタは関係ない。やっぱりシェスタはあまり働きたくないスペイン人の口実なんだと思う。いつもだったらしーんと寝静まっている筈の午後2時には村人が続々と集まりステージでバンド演奏が始まった。

私はザックを置くとカメラを持って飛び出した。村人は皆、どういうわけか白装束に真っ赤なネッカチーフだ。独特のリズムに合わせて十人位が輪を作って踊っている。

そこにゲイル&ヨナが飛び入り参加した。全く地元のステップなんか無視した勝手な振る舞い。ヨナがあっちと指さしてよさこいのように進むとゲイルが後に続く。村人達はあっけにとられながらも笑って見守る。

【踊るゲイル(右)&ヨナ(左)】


 その日の夕食も忘れ難い。まずこの辺雛な村のアルベルゲで夕食のサービスがあること自体が意外だった。案内されたのは地下の洞窟の様なレストラン。岩山をけずったような町に相応しい。このアルベルゲはいかにもやり手な叔母さんが一人で巡礼者をとりしきっていたがいつのまに現れたのか厨房には頼りになりそうなおっさんがにこにこ顔で迎えた。

 丸テーブルを囲んでスペイン名物のにんにくスープからディナーが始まった。私の隣はオーストリアから来たという青年だった。驚くなかれ彼が住むオーストリアの町からずっと歩いて来ている。多分、サンチャゴまで2,000kmを優に超えるだろう。ゴール予定は10月頭。明日はロス・アルコスまで行く予定だと言う。私達の明後日の到達目標だ。つまり私達の倍のスピードで歩き続けている。更に驚いたのは来月の頭にサンチャゴにつかなければいけないというその理由だ。次の仕事の予定が決まっているからなのだ。つまり転職の合間の時間を巡礼路踏破にあてている。なんという余裕だ!まだ30代だと思える若造にそんな事が可能な懐の深い社会が羨ましい。

 

 賑やかなお祭りももう終わりかと思っていたらとんでもない、それからが本番だった。私が寝袋に潜り込んだ9時頃からまた演奏が始まる。ステージは我々の寝床からほんの10m先だ。部屋のガラス窓にびりびり響くほどの音響だ。

しかも広場に面した教会の鐘が律儀に15分おきに響き渡って時刻を知らせる。それに負けじと唄う歌手の声量とスタミナにも感心する。残念なことにどの歌も同じに聞こえる。

流石の私も寝つけないので思索にふける。こんな時間まで騒ぎ続けるスペインの感覚についてだ。諸悪の根源は暮れるのが遅いことだ。スペインもサマータイムを施行しているのに午後八時でも明るい。大体、直線距離で3,000kmも離れているマドリッドとベルリンが同じ時刻なのがおかしい。私の計算だと互いの真南の位置に太陽が来るのに少なくとも1時間の差がある。

本来、出勤の準備をするべき朝6時はベルリンの7時。だからスペイン人はまだ眠い。どうしても働き出すのが遅くなる。しかも昼が長いという感覚だから本来、ピッチがあがる筈の午後2時から2時間もシェスタにはいる。スペインは絶対にスペイン時間を設定すべきだ。

狂乱の宴は明け方4時にピタリと終わった。文字通りピタリだ。教会の鐘が4時を知らせたので間違いない。バンドがあっさりと演奏を終えると物音一つしない。いさぎよいと言うべきなのか何とも不思議だ。

 


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コメント: 1
  • #1

    舟津 紘一 (火曜日, 03 11月 2015 20:07)

    佳境に入ってきましたね。続編を楽しみにしています。