スペイン巡礼紀行 前篇その7    春日屋 誠

⦁ 12日目 9月20日 ナヘラ⇒サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダ(21.8km)
目的地サント・ドミンゴまで麦畑が延々と続く丘陵に伸びた砂利道をひたすら歩く。太陽が眩しい。
単調な旅路で記憶に残っているのはゴール手前6kmにあるシルエニャの町だ。風光明媚だからじゃない。打ち捨てられたようなゴーストタウンだ。例の閑古鳥旅行社の木村君も同じ感慨を持ったらしいがスペインらしからぬ無味乾燥なコンクリート壁のアパートが100m位、道の両側に並ぶ。しかし人が住んでいると思われる部屋は5軒に1軒くらい。そこにも人影はなく開け放たれた窓にカーテンだけが風になびく姿はうら寂しい。

 ガイドブックによるとリゾート開発に失敗したらしい。スペインは長く不況から抜けきれないのは周知のこと。もし私がスペインの官僚だったら物価を上げても雇用を増やす政策を提言する。前にも書いたが例えばバルなんかでも従業員の数が少なすぎて手が回らないのを良く見ている。人件費をかける余裕がないのだろうがここは食事の単価を上げるようなインフレ政策をとったらどうだろう。とにかくお金をもっと流通させないとどうにもならないような気がする。

 サント・ドミンゴの大聖堂は聖ドミンゴの伝説で有名だ。遠い昔、町に寄った巡礼の家族に災難が降りかかる。息子が無実の罪をきせられ町の役人に絞首刑を言い渡される。家族は嘆き悲しみながらも巡礼を続けサンチャゴにたどり着きその帰路に再びこの街を訪れる。すると息子はなんとロープにつるされたままでまだ息をしている。ずっと聖ドミンゴが息子の体を支えていたのだ。そこで家族は役人に息子を助けてくれと頼むが役人は息子がまだ生きているのを信じずに、「まだ奴が生きているなんて、そこの鶏の丸焼きが歌いだすようなものだ」と言い放つ。するとなんとその鶏の丸焼きがすくと立ち歌いだしたというのだ。それ以来、この大聖堂では二羽の鶏を飼い続けているという。
 薄暗い大聖堂の檻にちゃんと二羽の鶏が飼われているのを見た時は笑ってしまった。

 その日、泊った公営アルベルゲは古く、収容人数を増やすために何回か増築を重ねたようで採光が悪く暗い廊下が複雑に入り組む。日本だったら確実に消防法違反だろう。
 部屋は二階で狭い階段を上るがそれが途中で直角に折れる。妻はこの時、なんて危ない階段なんだろうと嫌な予感がしたらしいが不幸にもそれが的中してしまう。

■13日目9月21日 サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダ⇒ビロリア・デ・リオハ(17.5km)
 
 その朝、私は身支度に手間取ってしまった。そのアルベルゲのベッドは全て一段でそれは良いのだがその分、荷物を置くスペースが狭い。私は妻のベッドとの間にザックの荷物を広げていたが夜中にスマホを乱雑に置いた服の間に落としてしまった。真っ暗な中でヘッドライトを点けるのをためらい明るくなったら探せばいいやと放置していたのがよくなかった。一度、服をザックに積めてからスマホをどこに入れたか記憶になくもう一度、ザックを開ける。
 妻は呆れて自分の荷物と前夜、バルで買った朝食用のパンの袋を持って「先に行ってるよ」と言って部屋から出て行く。ここでは皆、下の食堂で自炊だ。ようやくベッドの下にころがるスマホを見つけて拾い上げた時に、階段から大きな悲鳴が聞こえた。それに次いで誰かが叫びながら駆け下りる。
私の位置からは壁が死角になっていて様子が分からないが向かいのアメリカ女性が目を見開いて口に手をあて私を見つめている。
 それでも私はその悲鳴が妻のものだったことに気が付かなかった。
 ようやく食堂に降りていくと妻が左手を掲げたままテーブルにパンを並べている。「どうした?」と聞くと、やはり階段で足を滑らせ途端についた左手をひどくひねったと言う。
 その時、ドイツ人の若者が駆け付け妻を助け起こして食堂まで付き添い、腫れあがってきた左手に油を塗ってくれたという。あの駆け下りる音は彼のものだった。
 またやってしまった。重いザックを片手に下げ、もう一方の手がパンの袋でふさがっていてあの階段を下りるのは危ない。私が手間取らずに妻と一緒に降りていればこんなことにならなかったかもしれない。
 やはり荷物の整理をしてから寝るという鉄則は守らなければならない。
 それにしてもまたもや妻の負傷は左手。余程、今回の旅では妻は左に注意しなければならない。
 そういえば妻の左手は右手に比べて良く陽に焼けている。西に向かうので日中は左から陽をあびることが多い。陽にやけやすい妻の左がこんがり焦げてきたのだ。

 事故のせいで出発が遅れたうえに精神的なショックもあってピッチが上がらない。10kmほど先のレデシージャという丘の集落に一軒だけバルがあったのでそこで遅めの昼食をとることにした。
 明け放たれた入口を入ると土続きになっていて大きな木のテーブルが二脚だけ置かれている。夫婦で営むアルベルゲ兼バルらしい。
 女主人に昼食を取れるかと聞くと、「サンドイッチならある」との答え。ビールも飲めるからそれで充分だ。
妻はオレンジジュースを頼む。すると女性がオレンジを絞り器で絞る。久しぶりの生ジュースが体に染み渡ったらしい。もう一杯、お代わりを妻が頼む。
腹ごしらえをして妻がトイレに立つ間に旦那さんにお勘定を頼む。すると彼はブリキ缶を持ってきてドミネーション、つまり志でいいと言う。しかし私はあいにく10ユーロ紙幣しか持っていない。すると彼は缶の蓋を開けて、「お釣りを持って行け」と言う。私は遠慮なく5ユーロ紙幣を頂いたがあとになって寄付をする時にお釣りを貰うなんてと恥ずかしくなった。
妻はこのやりとりを聞いていて、「あの女性は私がジュースのお代わりを頼んでも嫌な顔一つせずに絞ってくれた」と感激する。
ここにも神がいた。見たところスペイン人の夫婦には見えなかった。多分、ドイツ系で引退するにはまだ若い夫婦だ。多分、山で暮らすことを選んだ二人がこの地を選んだのだと見た。

 その日の宿泊予定地はベロラードだったが無理をせず5km手前のビロリオ・デ・リオハという村に一軒だけあるアルベルゲに泊ることにした。この村で聖ドミンゴが生まれたという。
 そのアルベルゲは巡礼路から1kmほど離れているためか宿泊者は少ない。朝の事故で懲りた妻はゆっくり休みたくて部屋ごと借りることを交渉する。それならこの部屋を使えと指示するが料金を聞いても二人分のベッド代しか受けとろうとしない。ありがたいことに2ベッド分の料金で8ベッドある部屋を二人で占拠できた。
 夕食の準備ができたと呼ばれて食堂に入ると教室程もありそうな部屋に長テーブルが数脚置かれてそのうちの一つにポツンと5人分の食事が用意されている。
 私達夫婦の他は韓国系アメリカ人の女性とポーランドからという女性二人連れのみ。
 ここでも韓国系はおしゃべりでアメリカに残してきた家族のことやこれからの予定をべちゃべちゃとしゃべる。それに対してポーランドの二人は寡黙。私たち三人の会話に時々、うなずくだけで黙々と食事を口に運ぶ。二人ともかなりご立派な体格だが食は細い。
 ここでポーランドの人に会ったのは初めてだが物静かな印象は、まだ行ったことのない彼女たちの母国に対する印象と重なるのは偏見だろうか。

 妻の左手はふくれあがって見るからに痛そう。指は動くので骨折の心配はないが本来は湿布薬を貼って少しでも熱を冷まさないと痛みで眠れない恐れがある。スペインに何年か住んだことのある日本の知人にスペインにはどういう訳か湿布薬がないので持って行った方がいいと言われていたのに少しでも荷を減らそうと捨ておいていたのだ。初めての巡礼故か手抜かりが多い。
 妻は患部にバンテリンを塗りたくり、包帯代わりにマスクをいくつかつなげてその上から覆う。無ければ無いで何かで代用する知恵は妻の方が優れている。
■14日目 9月22日 ビロリア・デ・リオハ⇒ビジャフランカ・モンテス・デ・オカ(16.9km)

 妻は残り少なくなった鎮静剤を服用したお陰でぐっすり寝ることができた。
 韓国系女性は既に予定より二日遅れているとのことで先を急ぐ。かなりの健脚だ。
 一方、ポーランドの二人はかなりの荷物であることもあるが実にゆったりとした歩みだ。いまだ膝の調子が芳しくない妻よりもかなり後方を進む。二人だけになると色々話すことがあるらしく、ぼそぼそした話声が聞こえる。後で妻は思い出したようにそのポーランド女性二人のことを「あの人たちの信仰は本物に思える」と評した。

 右手の草原の向こうに小高い丘の白壁が続きその中腹に岩を削ったようにして白い教会が見える。ガイドブックによるとビルヘン・デ・ラ・ペーニャ教会というらしい。サラセンから逃れるようにして要害堅固な場所に教会を作ったのだろうか?興味が湧くが巡礼路からは2kmほども離れているので勿論、私たちに寄り道する余裕など無かった。ここは再び閑古鳥旅行社の木村君に紹介して貰おう。
 『坂道を登って近くから見ると、まるで崖に吸い込まれたかのように建つ外観にますます興味が掻き立てられる。内部の構造はどうなっているのだろうか、ぜひとも見学してみたい所ではあるが、残念ながらいつものごとく扉には鍵が掛けられており、内部の拝観は叶わなかった。ただ、この教会からの眺めはなかなかのものであり、それだけでもここまで登ったのは徒労でなかったと思わせてくれた』とのこと。いやぁ若い人には敵わない。

 トサントスという村に着いて頃合いも良かったのでただ一軒のバルを探した。しかし巡礼路から外れているらしく村を行き来しても見当たらない。そこで向こうから買い物籠を下げた中年の女性が歩いて来たのでバルの場所を尋ねた。
 どうやらもう少し道を戻って左に曲がるらしい。礼を言って歩き出した。そうするとなんとその女性が道端に買い物籠を置いて私たちを追ってくる。迷いはしないかと心配したらしい。確かに少し込み入っていて民家の庭先のような所を横切らなければならない。幹線道路の向こうに目指すバルを認めると女性は「アディオス。ブエン・カミーノ」と言って去って行った。世界中から親切だと褒められる我が国日本でも買い物を道端に置いて道案内する方がいるだろうか?いかに地元の人たちが巡礼路とそこを歩く巡礼者を大事にしているかをうかがわせる。

 次のビジャンビスティアという村で韓国女性に追いついた。彼女が噴水の脇にたたずみ自分のカメラでシャッターを押してくれと言う。どうやら私たちを待っていたようだ。
 彼女の話によるとドイツのコメディアンが書いた本にここの噴水でのエピソードがあってアメリカでは有名だそうだ。その本は私も読んだがその個所を読み飛ばしたのかこの噴水のことは気が付かなった。
 今日の宿泊地はスペイン語で“オカの麓の村”と立地がそのまま名になった村だ。国道沿いにバルがあってはす向かいにあるのはどうもペンションらしい。そこでバルの若いウェイトレスに聞くと、にこやかに笑ってカウンターの下から鍵束を持ち出してこれから部屋をお見せしますと言う。こんなに若い子がどうやらバルとペンション双方を営んでいるらしい。
 部屋に入ってびっくり。2ベッドルームにそれぞれダブルベッドが鎮座しておりしかもトイレとシャワールームまで独立している。これで36ユーロ。日本円で4千円強。前にも書いたがこちらは部屋料金だから夫婦の場合、一人当たり2千円ちょっとという計算になる。いくら田舎とはいえ破格にお得だ。
2階の部屋のバルコニーは国道に面しておりひっきりなしに大型トラックがかなりのスピードで坂道を駆け上ってくる。国道もこの辺からオカの岡超えが始まり急な登りが続くのでどの車もフルスロットルだ。
 洗濯物を干してから隣のバルで食事するために一階に下りていくと先ほどの女性よりも少し年上らしい女性がやはり愛想よく挨拶する。どうやらこの美人姉妹がバルとペンションを切り盛りしているらしい。こんな田舎の美人姉妹。さぞかし地元では有名人だろう。

 その晩のペリグレムメニューで私たち二人共に選んだウサギのローストは今回の巡礼中の食事の中でも一、二を争う美味しさだった。

■15日目 9月23日 ビジャフランカ・モンテス・デ・オカ⇒アヘス(15.8km)
 
  オカの登りはここフランス人の道の最大難関の一つ。高低差200mを一気に登る。まだ暗いなかヘッドライトを点けて出発。寒い。吐く息が白い。ここビジャフランカ村でさえ標高は既に900mを超える。
 バルはおろか水飲み場もないのでただひたすら登るしかない。森が深く視界が広がらないので忍の一字だ。雲が厚いが幸い雨が降る気配がないのがせめてもの救いだ。
 村から歩き続けて二時間ほど、なだらかな勾配になったなと思った途端にそれまであぜ道ほどに狭かった道幅が急に広がる。トラクター同士がゆうにすれ違えるほどのなだらかな道は遠く山頂らしきところまで続いている。
 多分、森に迷い混む巡礼者が多いことに業を煮やした役所が一気に森を切り開いたものと思われる。
 そのまま進むと面白いものを見つけた。赤茶けた道の上にいくつもの小石を「BUEN CAMINO」と読めるように並べてある。ここにも洒落たことをする奴がいる。
 ピークは小さな公園ほどの広がりがありベンチが並んでいる。さらにハワイのトーテムポールを思わせるような可愛いモニュメントがいくつか立っている。スペインの風景の中では異質ではあるがこれはこれで疲れた体にとって目に優しくなごむ。
 ベンチの一つで休んでいると後から来たグループの中からインド系の若い女性が妻を見つけて駆けつけてくる。「Are you all right?」と妻に聞く。どうやら一昨日の朝の事故をアアルベルゲの中で目撃していた一人らしい。
 妻がマスクで覆った左手を見せて大分良くなったと伝えると彼女は心底ほっとしたように微笑んで去って行った。

 ピークを少し過ぎた所にあるサン・ファン・デ・オルテガは修道院兼アルベルゲと数軒のバルがあるだけで村と呼ぶほどでない集落だ。ここの修道院で巡礼者に出すにんにくスープは名物だとガイドブックにはある。
 バルの外テーブルに座ってその修道院を眺めるがなにか薄ら寒い雰囲気だ。夜になったら幽霊が出ても不思議でない。昔見たロマン・ポランスキーの映画「吸血鬼」の舞台を思い出す。
 午後2時位だったか更に雲が厚くなり風も出てきて一層、恐ろしげに演出しているよう。とてもここに泊る気にならないので早々と切り上げて4km先のアヘスという村を目指した。
 オルテガからは歩きやすい下り坂なので40分ほどでアヘスに着く。
 ここも寒村だ。朽ち果てた教会の裏に数軒の民営アルベルゲがありそのうちの一軒に決めた。
 夕食まで少し時間があるので先ほどの教会に行く。ここの教会には有名なステンドグラスがあるというのをガイドブックで読んでいたのだ。
 教会は無人で珍しいことに扉が開いたままだった。殆どの教会が昼間は扉を閉ざしているのにここでは管理する人もいないのかもしれない。
 室内は荒れ果てておりミサも殆ど行われていないのかもしれない。
 そのステンドグラスはすぐに見つかった。薄暗い室内なのにそこだけ外光を受けて光り輝いているのだ。たしかに美しい。こんな朽ち果てた中の芸術品が全く荒らされていないことに驚く。
【こんな寒村にも必ず教会がある】
 

そのアルベルゲでまた懐かしい人に会った。オリソン仲間のアメリカ人女性だ。彼女は旦那さんを祖国に残した一人旅。巡礼路から離れた名所や所々の教会をゆっくり見てまわるので私達と同じスローペースだ。
 彼女はチェックインが遅かったので私のベッドの真上の上段をあてがわれた。彼女は寝袋をシーツに広げるとその上によっこいしょっとばかりに飛び乗る。ここのベッドの床は数本の板を間隔をおいて敷き詰めただけのもの。大柄な彼女が飛び乗った途端に天井が大きくたわみ下で寝てる私は思わず「おおっ!」と言って天井を両手で支えようとしてしまい三人で大笑いした。

■16日目 9月24日 アヘス⇒ブルゴス(19.9km)

 アヘスから2km先に有名なアタブエルカの遺跡がある。この近辺で80万年前の人類の骨が見つかり今でも発掘が続いている。2000年には世界文化遺産に登録されている。
 ここの岡を登りながら眺めた風景の美しさが忘れられない。眼下に広がる盆地に朝もやがかかり遺跡を示す印象的なモニュメントが並ぶ中、朝日が昇るにつれて赤と紫のグラデーションが上へ上と広がる。
 勿論、何度もシャッターを押したがどうも雰囲気を再現できない。こういう場合はやはり一眼レフ、望遠レンズ、三脚の三点セットが必要だが致し方ない。
 私は景色に心を奪われ、申し訳ないことに妻を気遣うことを忘れていた。前日のオカの登りに比べたら緩い坂なのに妻は苦しそうだ。初日の失敗を思い出し写真をとるふりをしながら歩みを緩める。
 それでもピークにたどり着いた時には妻は元気を取り戻し、鉄の十字架があったのでそこで撮ったもらったツーショットではにこやかに笑っている。
 緩やかな下りが始まり韓国の若い女性の二人組が軽い足取りで追い抜いて行った。彼女達とは三日ほど前から抜いたり抜かれたりだったが今日の二人は空身だ。ポーターサービスの利用を考えたらしい。

 今日のコースは何箇所か分岐点がある。勿論どのコースを選んでもブルゴスに向かうのだが景勝ルートだったりショートカットだったり選択肢が多い。私はまず標準ルートを選んだ。景勝ルートよりも距離が少しあるが途中バルがあるのでそこで休めると思ったのだ。
 しかし殆どの巡礼者が丘陵の稜線を進む景勝ルートを選ぶ。例の韓国女性たちも稜線歩きを選んだようだ。一旦、妻と相談するがバルがあるからという私の説明に彼女も頷く。ところがこれが空振り。時間が早すぎたのかバルはクローズ。この辺から妻が不機嫌になる。
 再び分岐点に出る。ガイドブックには右は無味乾燥なアスファルトの道で左に行くと空港を迂回して遊歩道に出るとある。更にここの分岐点は分かりにくく見逃す人が多いともある。立ち止まってどちらにするか迷っていると後ろから来た女性二人組も私達と同じガイドブックを見ながら殆どの人がまっすぐ行くけどここは左に行くべきだと私と同意見。しぶしぶという態で妻が従う。
 しかし空港を迂回する道が長くしかも歩きにくい。どこかで工事をやっているらしく未舗装路をひっきりなしにダンプカーが通るのででこぼこだ。私もずいぶんゆっくり歩いていたつもりだったが振り返ると妻は遥か後方だ。
 暫く妻が追いつくのを待つが徐々に大写しになる妻の顔は目がつりあがっているようだ。
「今まで左膝に力が入らないのでそれをかばって右ひざに頑張って貰っていたけどついに我慢ができなくなったみたい」と言う。
 空港を周回する道は単調で埃っぽく、これならアスファルト道を行っても同じだったと思っても後の祭り。これで空港特有の華やかな雰囲気でも伝わってくればまた気をまぎらわすこともできたかもしれないがそこはどうやら民間機にしか使われていないらしく人けがなく時々、セスナが発着するだけ。
妻はストックに頼るようになり僅か4kmばかりの区間に2時間もかかって、ブルゴスの4km手前のカスタナレスという町に着き、そこのバルで遅い昼食をとった。
バルの隣に小さなホテルがあって妻は今日はここに泊まりたい気配だ。しかし、ブルゴスまであと4kmだけだしこの小さな町で薬局が見つかるかが心もとなかったので私は「もう少し頑張ろう」と妻を励ます。鎮痛剤が切れたのでシェスタが開ける時間になんとしても薬局をみつける必要があると思ったのだ。
30分近く休んでも妻の膝の調子は戻らない。おまけに3日前の事故以来、妻は左腕を回すことができずザックを背負う時に私の手助けがいる。
ストックに頼った歩きを再開する。
再び分岐点があるがそこでも私はブルゴスに直進する標準ルートを選んだ。さっきよりはましだがそれでも凹凸があって歩きにくい。ブルゴスは大都市ですでに郊外にはいり風景も味気ない。
やがて往年のフランスの名優ルイ・ド・フュネスに体型も顔もそっくりな老人と出会った。彼は苦しそうに歩く妻を見て何かスペイン語で我々に話しかける。どうやらこの道でなく川沿いの遊歩道のほうが歩きやすいと言っているらしい。妻の顔が再び曇り、「だから言ったじゃない」との心のつぶやきが聞こえるようだった。
市内に入り薬局を見つけた。スペインの町には何故か薬局が多くしかも決まって緑十字の分かりやすい目印を掲げている。
ここでも英語が全く通じなくて苦労したが何とか塗り薬だけ調達して再び歩き出してすぐにペンションの看板を見つけた。
その夜、ペンションでの夕食時に私たちは大喧嘩した。他に利用客がいなかったのが幸いだ。
妻は私のルート選択がまずくその所為で膝を痛めたと言う。私は分岐点では必ずどちらにするか妻と相談のうえで決めたと主張する。私はまずルートを決めてどうする?と聞くが妻にはどちらがいいか判断するだけの情報がなかったということだ。

結局、私達はそのペンションに連泊するも妻の膝は回復せず私達の徒歩による巡礼はこの日で終わった。

⦁ ブルゴス以降

<ブルゴスでの快適とは言いかねる三日間>

ブルゴスで私達が連泊した宿は名こそペンションとなっているものの巡礼者が泊まるような処ではなかった。妻の膝が限界を超えていなければ私達だってここを宿と決めるはずがない。なにしろ、そこから僅か3kmも進めば大聖堂にたどり着くのだ。
ここはアパートとペンションを併用していて利用者は労務従事者が多いようだ。はっきり言って所得階層は低そうだ。
一階にバルがあってそこで部屋の鍵を預かる。例によって輪っかに3つの鍵が付いている。まずバルの隣にあるアパートの思い扉を開け次に2階に昇って共用廊下のドア、最後に部屋のドアを開ける必要があるが全てオートロックなので外出時はこの鍵束を持ち歩く必要がある。この鍵が我々の悩みの種だった。
まずどの鍵がどのドア用なのか目印がなくて分かりにくい。誰でもが鍵穴に差し込めばすぐ分かるじゃないかと思うだろうがそれは日本でしか通用しない日本人の常識。まずどの鍵も鍵穴に差してもスムースに動いたためしがない。その中でも一番の難関が建物入口の鍵。幸いなことに入口付近にテーブルがあって誰かがそこでビールかワインを飲んでいる。その中には親切な人が一人はいて不思議なことにその彼または彼女の手にかかるといつでも簡単に鍵が開く。
共用廊下に入るとセンサーが働いて電灯がつく仕組みだが困ったことに20秒位で消えてしまう。そうすると窓が一切ないので真っ暗だ。最後の難関である部屋の鍵でまごまごしているうちにタイムアウト。その度に共用ドアをまたわざわざ開閉してセンサーを働かせなければならなかった。
これだけじゃない。最も不思議なのは部屋から出る時も鍵を使わなければ開かないということ。つまり一人が外出したら残された一人はその間、部屋に閉じ込められる。これで火事が起きたらどうするんだと心配になる。

鍵を含めて環境は劣悪だったがオーナーらしき女性、バルに常駐している若い男女の従業員やここの常連さんたちは皆、親切だった。彼らに助けられたのは鍵の開閉だけじゃない。
初め私たちは一泊だけのつもりだったが翌日になっても妻がとても歩ける状況にないので連泊することを告げに私がバルに降りて行った。
例によって英語が通じない。するとバルの常連客がアイパッドを持ってきて翻訳アプリを立ち上げて英文からスペイン語への翻訳モードにする。そこに私が「We want to stay here one more night」と打ち込んでやっと意味が通じたということもあった。

スーパーで買って来た氷で膝を冷やしてもあまり芳しくない。これ以上、滞在を伸ばすとこの先の日程が苦しくなるので作戦を変えることにした。180km先のレオンまでバスで移動するのだ。そうすると10日分の日程を稼げる。その間、休養して膝の回復を待つことにする。
レオン行きの長距離バスは二便あることをインフォメーションで確かめた。バスターミナルまでは歩くことにして午前中のバスに間に合うように早めにホテルを出る。途中、買い物に行く途中らしい地元の主婦が話しかけてきて暫く私たちと一緒に歩き盛んに市立図書館の話をする。どうやら自慢の図書館らしい。
バスターミナルの切符売り窓口は3か所並んでいるのに開いているのは1か所だけでそこに長い行列が出来ていた。ここも人員を必要数以下に抑えている。
たかが切符を買うだけなのになんやらややこしい注文をしているらしい人が多くてなかなか列が進まない。バスの発車時間まで30分あるが作業効率の悪さを考えると不安になってくる。
やっと私たちの前に並ぶバックパッカーの男性の番になった。ところがその彼が長々と係員に向かって何やら説明を始める。それを聞いた係員の女性は初めは首を振って断る仕草だ。男性は粘る。すると係は電話を取ってどこかに確認をしている。バスの発車時刻が迫る。私たちの後ろに並ぶ人たちはのんびりと成り行きを見ている。普通、一つの窓口が渋滞したら隣の窓口を開けるだろうと思うがここはスペイン。ついたての向こうには他のスタッフの影もない。
ついに私は切れて、妻が止めるのも振り切って男性の背後に迫り、「Hey!What are you doing? We have to take the next bus! 」とどなった。
私のつたない英語が通じたのか通じなかったのかは定かでないが馬鹿男はへらへら笑って、切符を無くしたと言う。係は私の抗議を無視して電話を終えると男性に身分証を見せろと言う。他の人たちも苦笑しながらもこんなことでカリカリする日本人が悪いというような目で見ている。
馬鹿男は腹立たしいことに切符を受け取るとこちらに謝りもせずにさっさと立ち去った。
更に頭にきたのはレオンまでと告げたら午前中のバスはすでに満席。仕方ないので次のバスまで5時間待つことにした。

結果的には午前中のバスに乗らなくて正解だった。あの青年に感謝しなければいけないのかもしれない。
待つ間、私たちは大聖堂を見学することにした。日本語で大聖堂と訳されるカテドラルとは司教座がある所という意味で一般の教会よりもワンランク上。特にこのブルゴスにある大聖堂は完成に300年以上を要した荘厳な建物でこれ自体が世界遺産に登録されている。
考えて見れば巡礼中、じっくりと建物を見学するのはこれが初めてだった。その圧倒的な量の絵画とドームの美しさには誰でもが息を飲むだろう。これを見学しないで通り過ぎるのは一か月以上お世話になるスペインに対して失礼というものだ。
 

大聖堂の前に広い広場があって着飾った多くの人が行きかう。巡礼路とは全く違ったスペインの華やかな一面だ。
今日は土曜日でチャペルではいく組もの結婚式が行われているらしい。こちらの女性のお洒落は年齢に関係ない。恐らく70代を超えていると思われる女性が原色の派手なドレスを思い思いに着て闊歩する。そして決まって夫や家族を引き連れて友人と出会うと互いに抱擁を繰り返す。子供たちも愛くるしい。いつまでも見ていて飽きない。
私はオープンテラスの椅子に座りデジカメのズームを一杯に伸ばして彼らを追いかけた。人物を撮る時はまず了解を取るというのが最近のマナーだが、そうすると相手も構えてしまって自然な表情をとらえられない。ここは感づかれにくい小型デジカメをいいことに私はシャッターを押し続けた。

レオンまではメセタの大地と呼ばれる麦畑以外には何もない乾燥した台地が続く。バスはそのど真ん中を貫く高速道路をノンストップで進む。車窓に延々と続く畑を見ながらやはり徒歩貫徹を断念してつくづく良かったと思う。5km以上にわたって村どころかバルもない区間がざら。こんなところでギブアップしたらタクシーも呼べなそうだ。

<レオンでのむなしい二日間>
 レオン駅でタクシーを拾う。私たちの格好を見て運転手がアルベルゲだね?と聞くので今日はホテルに泊まりたいと言ったら彼が連れて行ったのは三ツ星ホテル。しかもツインは埋まっていて四人部屋しかないと言う。散財することになるがバスの長旅も疲れたので諦めてチェックインした。
 ここのレストランは値が張りそうなので近くのバルに向かうことにした。少しの距離なので妻はストックを持たずに私の腕につかまりながら少しずつ歩く。向かったバルはオープンテラスも併営していていくつかのグループが夕食を楽しんでいる。彼らの目前で妻がこけてしまった。小さなステップを乗り越えられずにつま先をひっかけて膝を突く。大きく叫んで私の腕を掴む。皆が何事かと見つめる。
 これで妻の心が折れてしまったようだ。その夜、部屋に戻ってから、もう歩きたくないとこの時初めて私に告げた。
 それでも私は諦めきれなかった。何しろ人生最後の大冒険と意気込んでここまで来ている。
翌日、インフォメーションに行き日曜もやっている病院を教えて貰った。医者に診てもらってから決めようと妻を説得してタクシーでその病院に向かった。
病院内でストックは使えないので妻を車椅子にのせて診療室に入る。担当は若い女性で英語を話せた。どうやら私たちが全くスペイン語を話せないと知った受付が英語を話せる先生を指名してくれたようだ。
念のためにレントゲンを撮った結果、骨に異常はなく、その先生曰く「数日、痛み止めを飲めば歩けるようになるでしょう」とのこと。私はこれで再び巡礼を続けられるかと思ったが妻は「私の体のことは医者よりも私が知っている」と言って、再び歩くことを断固拒否する。
妻が出した結論はサンチャゴ・コンポステーラまで列車で行って大聖堂のミサに参列するということだった。これは私にとっては思いも知れない答えだった。
それで初めてカソリックである妻の目標は三大聖地の一つの地で祈ることだったと知った。そこまで歩くことが目標だった私とでは旅の目的が違う。準備に1年以上もかけていたのに肝心な点で食い違っていた。夫婦の間でも本当に分かり合えるということがいかに難しいかを実感した。

<念願のサンチャゴにて>
 リタイアを決めてタクシーを拾い、駅でサンチャゴまでの切符を買う。気分は落ち込んだままだ。自分の体には支障がなくまだまだ歩ける自信があっただけに余計に不本意だ。サンチャゴの大聖堂を見られれば本望という妻の感慨も私には釈然としない。
 列車は定刻通りに発車し、あっという間に市街地を抜けてお馴染みの荒涼とした大地が車窓を流れる。私はガイドブックを取り出して線路と巡礼路の位置関係を確かめる。検討をつけてあの辺を歩くことを想像するうちに簡単なことに気が付いた。
また来ればいいのだ!まだ歩いてない500kmをこれからの楽しみに残しておいたと考えればいいのだ。
今回の旅の楽しみはスペインの地に入ってから初めて始まったわけではない。あの準備期間のわくわくした気分を思い出す。それなら今が終わりじゃない。次のリベンジのための準備が始まったのだと思った途端に気持ちが立ち直った。

 二等の指定席はガラガラだった。その中に一人、アジア系で体格のいい初老の男性がいることにレオンを出発する時から気が付いていた。その男性はさっきから席を盛んに移っている。どうやら目当てのスポットがあるらしくその度に一番見やすい席に移っているらしい。
サンチャゴまであと1時間程になった頃にその男性は前の席の背もたれに手をかけて「日本の方ですか?」と聞いてきた。
それまで時々、私たちにチラッと視線を向けるだけだったのが、私たちが交わす言葉を聞いて話しかける気になったらしい。
彼はブラジルの日系三世で、かたことの日本語はしゃべるが漢字やひらがなは読めずにかろうじてローマ字だけで日本語を表現できると言う。
サンパウロの郊外で農場をやっていたが十年前に奥さんを亡くして初めて一度も奥さんに感謝の言葉をかけなかった事に気が付いて何か贖罪をしなければならないと考えだしてここのスペイン巡礼の道のことを知ったと言う。それ以来、何度もスペイン巡礼の経験を積むうちにブラジルのサンチャゴ友の会の理事になり、日系人ということもあって四国のお遍路とここの巡礼路を取り結ぶプロジェクトに関わるようになったという生い立ちをサンチャゴに向かう道中で聞いた。
今、四国の八十八か所巡りも世界遺産登録を目指しており先輩格であるここの巡礼路関係者との交流が盛んだという。尤も四国の場合は宿泊施設を含めた受け入れ環境が大きな課題だという点で彼も私たちと見解が同じだった。

 サンチャゴに着いたら私たちの今夜の宿を手配すると言って、私の携帯でどこやらと交渉する。なんとそこに着いてびっくり!大学の構内にある修道院だ。予約すれば宿泊も可能だがガイドブックには掲載していない。
 しかも本来35ユーロの部屋代を彼は「この人たちは毎年、巡礼路を歩いている私の友人だ」と大ぼらを吹いて20ユーロまでまけさせる。私たちは恐縮して正規料金を払うと言うが係の尼さんは断固受け取らない。実は彼が電話で交渉した相手は友人であるここの修道院長。彼女が了解したことを他の尼さんが覆すことは絶対に出来ない。カソリックの階級制は非常に厳格なのだ。
 私たちは図々しくもここに3泊することにした。明日と明後日の二日間、ミサに参列したいのがその理由だ。

 

修道院の質素な朝食も忘れ難い経験だ。がらんとした食堂に並ぶテーブルの真ん中にパンとフルーツが山盛りにおいてある。テーブルに座ると尼さんがカップにコーヒーを注ぐ。
パンは固いしフルーツも新鮮とは言いかねる。しかし、話し声が時折聞こえるだけの厳粛な雰囲気の中で噛みしめるたびに謙虚に感謝の念が沸いてくる。そういう空気が満たされた中で過ごした三日間は実に贅沢な時間だった。
 大聖堂までは修道院から歩いて三十分。ミサは毎日、正午から始まるので時間はたっぷりある。ゆっくり大聖堂を見学してからミサの行われる大広間に向かう。既に大勢の人が集まっている。祭壇を中心にして十字架の形に10人は座れるベンチをいくつも並べている。私たちは祭壇から見て右手にあたる回廊の後方にやっと開いている席を見つけたが暫くすると席に座れない人たちが立ったままでミサを待つ。すっかり有名になったここのミサは一大観光スポットだ。
 ミサの前に尼さんによる歌唱指導があった。ミサの中では参列者が何度も立って讃美歌を歌う。伴奏はオルガンだけなので予行練習をするのだ。その尼さんの澄んだ歌声も素晴らしい。
 ガイドブックによると午前中に市内の事務所で巡礼路を完走した証明書をもらえた人はミサの中で名前を読まれるということだった。しかし、今や大変な数の巡礼者が押し寄せているのでとても全ての人の名前を読む時間がなくなったためだろうか出発地と国籍別に人数を司祭が告げるだけだった。
 やがて名物の大香炉の振り回しが始まる。殆どの人がこれを見るために参列している。煙を吐きながら香炉が頭上をブランコすると写真を撮ろうと立ち上がる輩が多い。すると当然、後ろの人が見えなくなるので妻が「Sit down!」と叫ぶ。
 この地でマナーが悪いと指摘されることが多いのはアメリカ人だ。数が多いだけでなく一人ひとりの声が大きい。我が国を訪れる隣国の人のことを想像すればいい。

【人の群れの隙間から揺れる香炉を撮るのは結構難しい】
 

 一旦、修道院に帰り昨日の男性と待ち合わせた。宿泊先を手配していただいたお礼に一緒に食事をしようと約束していたのだ。
 三人で再びバルが集中している大聖堂に向かう。途中、巡礼事務所を通り過ぎようとしたら彼が「ちょっと寄って行こう」と言う。
 夕暮れを迎えて、あと一時間で閉まるのに巡礼者が長蛇の列を作っている。今日中に巡礼証明書を貰って明日のミサの中で読み上げて貰いたいので並んでいるのだ。
巡礼証明書は最低100km歩いてサンチャゴに入った人だけが貰える。途中何キロ歩いていても最後の100kmが肝心なのだ。だから私たちは貰えない。
それなのになんで寄って行くの?と聞くと、彼は「記念にクレデンシャルにスタンプを押してもらおう」と答える。スタンプだって歩いて来た巡礼者だけが押して貰えるのだからそれすら私たちに権利はない。
そんなこと彼はおかまいなしで行列を無視してどんどん前に進んでスタッフに何ごとか話すと私たちを手招きする。私たちは並ぶ人たちに気兼ねしながら前に進んでクレデンシャルを差し出すと、苦笑いしたスタッフがそれにスタンプを押した。

【これがインチキして貰ったサンチャゴのスタンプ】
 

 愛想のいい客引きがいたレストランに入った。今日は奮発することにしてパエリアと名物のタコ料理を注文する。
 サングリアとワインで気持ち良く酔って会話が弾む。彼はブラジルと日本のパスポートを持っており事業の話をする時は日本のパスポートを初対面の相手に示すという。日本人と言うと世界中どこでも信用されるらしい。
 彼はあと一か月サンチャゴに居てその後、娘さんの住むスイスでもう一か月過ごし12月にブラジルに帰るという。クリスマスプレゼントに五本指ソックスを送ることを約束して互いのメアドを交換した。

 翌日、再びミサに向かう途中で四国から来たという二人連れの女性に会った。彼女たちは丁度、巡礼証明書を貰った直後で卒業証書のように筒にくるんだそれを嬉しそうに掲げていた。彼女たちはサリアからスタートしてきっちり100kmを五日間かかって歩き巡礼証明書をゲットしたという。

【最後の地ヴィーゴにて】

 私たちは往復共エールフランスを予約していたのでサンチャゴの南西20kmにあるヴィーゴの空港で帰りのチケットを買い替えた。早割割引のチケットとの差額は一人当たり1000ユーロ。しかも一番早い便でも3日後。この町にアルベルゲはなくホテル代も含めて痛い出費だが致し方ない。
 
 サンチャゴからヴィーゴまでは鉄道を利用したが車窓から眺める風景はそれまでとはうって変わって緑豊かな農園が続くのには驚いた。土地が豊かなのだろうかチロル風のお洒落な農家も散財する。
 ヴィーゴは港町だ。海軍の基地もある。しかしスペインの歴史の中で檜舞台に上ったこともなく市内に見るべき史跡もない。
 ただそれまでとは異なるスペインの一面をここで見ることが出来た。海に面しているためか他の町との際立った違いがアフリカ系の住民が多いということだ。
 そして肌の色に関係なく共存共栄で生きているという雰囲気が満ちているのを感じた。
 市場のそばに市内で唯一の観光スポットといえるレストラン街がある。道にテーブルを並べ魚介料理を食べる観光客が多い。
そこで妻とロブスターを食べていた時だ。黒人女性が頭にいくつもバッグをのせて観光客に売ろうとテーブルの間を歩いている。彼女が売ろうとしているのは氏素性の怪しい革のバッグだ。明らかに違法だが店の従業員も見て見ぬふりだ。客もそれほど迷惑そうでなく肩をすくめて彼女をやり過ごすだけ。そこに笛を吹きながら数人の警官が近づいて来た。それに白人従業員が気が付いて黒人女性に教えると素早く女性が消える。警官もそれを追いかけたりしない。形だけの取り締まりだ。
また従業員の中には黒人が多い。次の日、私たちが夕食に選んだ店では明らかに仕事に慣れていない黒人スタッフがテーブルについた。注文は何度も聞き直してくるしワインの栓も上手く開けられない。私たちが支払いをすませテーブルを立つと他のベテランの白人スタッフが慣れない奴でごめんねという風に小さく笑う。辛抱しながら仕事を教えているようだ。
スペインと云えば遠い昔、大航海時代に今の南米の地での傍若無人な振る舞いなど人種偏見の根強い国との印象があったのでそれらの風景は私には意外だった。たった三日間の極私的な経験だけで分かった気になってはいけないだろうが巡礼路周辺の穏やかな空気と共通するものが都市部にも流れているように思う。
 
 以上で(最初の)スペイン巡礼紀行は終わり。帰国してから既に7か月になるがフォトブックを見直したりガイドブックを再び広げるたびに再挑戦したい思いが強くなる。
 家庭環境も変わって、いますぐ海外で数か月を過ごすことは叶わないが機会があれば同行したいという仲間も数人、見つけることが出来た。
 だからこれはあくまで前編。近いうちにスペインの地で私なりに自分の巡礼を完結させることを自分に誓っている。

                           ひとまず完

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コメント: 3
  • #1

    緒方 智子 (金曜日, 03 6月 2016 20:30)

    一気に読みました。おもしろかったです。
    スペイン巡礼には、韓国の友人が毎年出かけているそうなので、いつかご一緒させていたきたいと思って、前から関心を寄せていました。ありがとうございました!

  • #2

    舟津 紘一 (日曜日, 19 6月 2016 09:51)

    しばらく旅行に出ていたので記事を読むのが遅くなりました。
    巡礼はずいぶんアクシデントがあったようですが、その分たくさんの思い出が詰まっていますね。上大岡で新しいクラスもできました。またお会いする機会があると良いなと思っています。

  • #3

    おくの (土曜日, 07 1月 2017 13:33)

    お疲れさまでした。
    途中リタイアは残念でしたが楽しみが続く喜びもありますね。
    後編を楽しみにしています。
    ブエンカミーノ