ここにいつかは必ず帰って来るわ。 高田繁子

 (写真集は右のバックナンバーから選んで下さい)

 

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ここにいつかは必ず帰って来るわ。と自問自答した日がよみがえってきました。

 それは、夫の赴任先がアメリカのシカゴと決まり、小学生の子供二人を含む家族 四人で渡米し任期を終え帰国して30年が経過していました。

 

当時は一日も早く現地に溶け込む生活に悪戦苦闘し、慣れぬ英語も使いこなし、買い物から学校のPTA参加、銀行小切手やクレジットカ-ドを使い分け、左ハンドルの車も家に2台必需品でした。 夏が来れば子供達をキャンプに連れて行き、冬が来ればアメリカ式のクリスマスを祝い、お正月や天皇誕生日にはお客様を迎えての現地財団法人と日本の国際交流は一年中何がしかの行事の中でした。 そんな生活が3年続いていました。

 

我が家の子供達もいつか日本に帰ることが前もって分かっていましたので、アメリカンスク-ルと日本人学校の両方の小学校に通うことになりました。

 

当時のアメリカはレ-ガン大統領の時代で、景気は日本のバブル期、日本の企業のソニ-が48億ドルでコロンビア映画会社を買収。 「外国資産の買いあさり」と日本はシュプレヒコールを浴びせられていました。 自動車産業のマツダが現地進出をしており消費燃費の少ない小型車が飛ぶように売れ、工場もデトロイトに作られていました。 しかしそこもジャパン・バッシング(日本叩き)の目に遭い、コンチネンタル・イリノイ銀行1984年破綻とアメリカの経済の嵐は吹き荒れていました。 夫はその経済摩擦を何とか回避するための目的の任務でした。

 

ようやく現地の生活に慣れて来たころに長男の通うプリザントリッチ・アメリカンスク-ルの担任の先生から、こんな活動がありますよ、と勧められたのが

「パペットショ-(人形劇)」だったのでした。 アメリカンスク-ルの先生からは英語の分からない我が家の二人の子供たちに手厚いサポ-トをしていただき、少しも嫌がらない学校生活を送ることが出来ていました。 感謝の気持ちで一杯でしたので、それに報いるためにも何かをしなければと思っていた矢先のお話でした。

 

地元のお母さん方と一緒に編成された有志に拠る「パペットショ-(人形劇)・プロジェクトチ-ム(手話を使って耳の不自由な子供たちに読み聞かせではなく手振りでお人形がお話を伝える役目でした。 ABC表現を指を使って言い表すものでした。 練習に練習を重ねデイストリクト34の学校訪問をしました。

30年前の地方新聞に載った記事。

 

その時の信頼関係は、時を経た今も心に残っており、帰国してからもアメリカの友人を日本に招待し、また文通を交わすことにより長く交流を暖めてくることが出来ました。

 

2008年に念願のシカゴ再訪問が叶いました。昔の友人と再会し、積もる話に花を咲かせ、お互い30年の時の経過は拭い隠せませんでした、当時麗しき容姿も少々変貌していましたが、逢えば心は伝わってきます。なつかしい我が家であった元の住まいを訪ね、変わらない場所のス-パ-マ-ケットや在りし日の小学校の芝生のグラウンドを踏みしめ、時の経過を懐かしみました。我が家もそうですが、アメリカの友人の家も子供達が独立し、家の中は、夫婦二人暮らし。使われていない部屋があるので、それを活かして、ゲストを招き、家族の一員になってもらい、ありのままの普段の生活に触れる国際交流が行われていたのでした。

 

 

日本をもっとより良く、正しく理解してもらうには草の根交流はかかせません。それが広がれば、人間同士の理解が深まり、もっと世界交流が円滑になると思います。 「サーバス」の一員に加えて戴き、はるばる海を渡って日本にやってくるトラベラ-と出会い家族の一員に加わってもらい日本文化に触れて戴いたり、ごはんを一緒したりして親善活動をしています。 私達のアメリカの生活は少し、背伸びをした所のあった、使命感に溢れたものだったと思います。 が現在は元にもどったあるがままの姿で、物を見ることが出来、サ-バストラベラ-と接し、また仲良くなった人達の国を訪ねていくチャンスもうまれています。 それを通して世界をもっと広く見て、次世代へ伝えていきたいと願っています。 今の日本の低迷した経済状態のもとでは、内向きになりがちで、外に目が向けられない傾向にありますが、若い人達がもっと広く世界に羽ばたいていって欲しいと思います。

 

ボランテイアを私に結びつけたのは、シカゴ滞在の30年前の手話を使ってお話を耳の不自由な子供達に見せる「パペットショ-」を行ったのが、最初でした。

 私の黒光りする手帳には在りし日の現地の友人の名前や住所、電話番号が残されており、思い出が一杯詰まっています。また新しい出会を心待ちにし、これからも胸を膨らませています

 

旅の楽しみのひとつは、計画を立てることにあると思います。 アレコレと資料を調べて、訪れる先々の土地に思いをはせながら、計画を立てる楽しさ、そうして実行に移す喜びは大げさに言えば創造の喜びとでも言いましょうか。

 距離の遠近に関係なく“自分の旅”という実感が計画の中から湧いてくる。 そうして計画が用意周到であればあるだけ、道中も安心だし、楽しさもまた、格別になると思います。

(旅行の写真記録はバックナンバーから見て下さい)

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コメント: 4
  • #1

    平井登茂子 (木曜日, 18 10月 2018 03:54)

    久しぶりに高田さんのお人柄に触れて懐かしく、嬉しい気持ちです。旅行記、私の旅行を重ね合わせて楽しく拝見しました。お元気で!!

  • #2

    渡邊愛子 (木曜日, 18 10月 2018 10:17)

    文面拝読して高田さんの近畿支部でのお働きの原点に触れ納得しました。
    亡き夫も生涯の師とシカゴで出会い私達も何度かシカゴでの再会を
    果たしました。今頃は師ご夫妻と夫は楽しく語りあっているでしょう。
    有難うございました。

  • #3

    水野勇司 (木曜日, 28 3月 2019 17:03)

    高田様がアメリカでは色々とご苦労様されたのは聞いておりましたが現地の新聞に載ったのは初めて知りました。50周年記念誌に載せてほしかったですね。
    これからもサーバス活動を通じて国際交流に力を注いでいただくよう念願しています。

  • #4

    高田繁子 (金曜日, 29 3月 2019 20:31)

    ご意見ありがとうございました。サーバスジャパン50周年記念誌、懐かしいですね。ご一緒に編集やら、文字の印刷活字から電子化などのお手伝いしたことが、つい昨日の様です。あの記念誌作成の頃は、この原稿はまだ出来ていませんでしたのよ。その後に纏めるのに、思い出しながら過去を辿って行きました。水野さんは確か、詰襟の学生服を着ていらっしゃった頃からの真摯なサ-バス活動を続けていらっしゃる方とお聞きしています。今後のご活躍をお祈りしています。