スペイン巡礼紀行 後編 (3) 春日屋 誠

 

10日目 サン・マルティン・デル・カミーノ⇒アストルガ(23.8km

 

 この日、サン・マルティンから歩いて一時間半のオスピタル・デ・オルビゴという村の美しさには息を飲んだ。石畳の橋の向こうに朝日に照らされてレンガ色に染まる街並み。映画のロケ地に最適だろう。

 

【こんな村でしばらく暮らすのもいいかも】

 

ここら辺は3つの村が隣接していてバルも多い。

 

 三つ目の村を過ぎたら丘陵地帯の草原が広がった。本当に気持ちのいい道でピクニック気分だ。すると果物を出している露店が現れた。近づくとスイカやリンゴ、桃などが並べてあって多くの巡礼者が休んでいる。どうやら果物は食べ放題でお代はドネーション式だ。私はスイカとぶどうをいただいた。乾いた喉にうれしいみずみずしさだ。スペインの青果の価格は安いので市場で買っても2€もしないだろうが私はついつい嬉しくなって5€を備え付けのボックスに入れた。

 

【サント・トリビドの十字架からアストルガの町を一望する】

 

 アストルガの市内に入る前に巡礼路は線路を渡るが何故か踏切は閉鎖されて自転車と歩行者兼用の歩道橋がかかっている。この歩道橋がなんと六往復のらせん状で面倒臭いことこの上ない。自転車連中はそれでも降りずにこぎ続けるがご苦労な事だ。踏切を整備すれば済むことなのに何でわざわざこんな大げさな物を作るのかスペイン人の考えることは分からない。

 

 更にその先に急坂が待っていた。それを登りきって街中を進み二つ目の広場の傍のアルベルゲに入った。

 

 いつものようにシャワー、洗濯をすませてから佐藤に連絡をとった。やはりこの町のホテルで待機していたと言う。

 

 アストルガは坂だらけの町だ。ガウディホテル前のテラス席で待っているとゆっくりと上がって来る佐藤が見えた。私が彼と会うのは半年ぶりだ。それほど憔悴しているようには見えない。

 

 膝の調子はどう?と聞くと、「うん。まあまあだ」と答えて、「セルフマッサージと痛み止めでなんとか頑張っている。明日からは様子を見ながら行くよ」と言う。

 

 江口もあなたのペースに合わせるからあせらずに行こうと言う。

 

 幸いと言うか、今の所、計画していた日程より一日先行している。さらに計画段階から予備日を二日みているから余裕は充分ある。

 

 佐藤から今までの苦労話を聞いた。やはり病気で寝ている間の筋力の衰えが想像以上で初日からこんなはずじゃないと焦ったと言う。そうすると注意も散漫になり、普段では考えられないようなミスが増える。

 

 まず洗面所に洗面具一式が入ったポーチを忘れた。中にカメラの充電器があったのが痛い。

 次に小銭入れをどこかで置き忘れ、挙句の果てにはヘッドライトを外してポケットに入れたつもりがいつのまにかすり落ちていた。

 

 今回、彼が学んだ教訓。

 

「よく心技体と言うけど、あれは順番が違うなと思った。まず体だね、次が心、そして技。

体が疲れていると平常心を失って大事な時にミスをすることが分かった」

 

 一旦、佐藤とは別れてから再び、彼の泊まっているホテルの傍の広場に集合してオープンテラスで晩飯をとる。

 

 佐藤はワインを飲むと元気を取り戻す。彼と江口はカミーノ初体験だからここまでの感想を述べ合う。二人共、異国の人たちが共通の目標を目指すことで抱く連帯感にいたく感激している。そしてこのような経験ができるのはここだけだという感想にも私は全く同感だ。

 

 佐藤のテンションが上がって来てもともと大きな地声がますます響く。

 

 私の向かいに座る佐藤の後ろのテーブルで上品な女性が一人で食事をしていた。小奇麗なワンピースを着ているので私は地元の方だろうと思っていた。もう大分、前に皿は片付けられてデザートとコーヒーを楽しんでいるが、時々、こちらのテーブルに視線を投げるので私は気になっていた。

 

 佐藤の話がアルベルゲで起きた小事件の事に移った。あるアルベルゲで夕方、佐藤が寝袋をかぶって昼寝をしていたら突然、若い女性がのしかかってきて彼にキスをしたという。そして大変な人違いに気が付いて彼女のほうが大きな悲鳴をあげる。アルベルゲ中が大騒ぎになったという話にたまらずに我々も大笑い。お勘定をすませた向かいの女性が立ち上がり我々のテーブルに寄って来るので私はハッとした。やばい!?

 

「楽しそうにお話ししているのね?巡礼で歩いているの?」と彼女は聞く。

三人とも、ハイハイとうなずく。

 「私も歩いています。明日、お会いできると嬉しいわ」と素敵な笑顔を見せて鮮やかに立ち去った。格好いい!

 

明朝630分にホテルガウディ前の広場に集合することを決めてその日は解散。明日からのカミーノ体験に期待を膨らませたが実際にはその日から珍道中が始まった。

 

 ちなみに件の女性とは二度とお会いできなかった。

 

 

11日目 アストルガ⇒ラバナル・デル・カミーノ(20.6km

 

しんとした広場で、待っていると背の高い日本人が寄って来て「佐藤さんのお友達ですよね?」と話しかける。彼のことは佐藤から聞いている。何日か続けて同じアルベルゲに泊まっていて仲良くなったグループで彼は奥さんと友達の三人で歩いている。彼は山形県警のOBだそうだ。佐藤は来年の秋、東北に行く予定があるのでその時に仙台で会う約束までしているとのことだった。

 

県警OBと奥さんはこの先をスキップしてサリアまでバスで行くことにしたと言う。佐藤とはしばしのお別れなのでわざわざ挨拶しにきたらしい。ただそれだけのために、夜明け前に寒いなか出てくるとは、元警察官だけに律儀な人だ。

 

その肝心な佐藤が約束の時間を過ぎても現れない。彼の携帯を鳴らすと呼び出し音三回で寝ぼけた声が返って来た。

「すまん。やってしまった。完全に寝坊だ」

「いつ起きたの?」 

「たった今、電話で起こされた」

「先、行くわ」

 早いバスなので準備しなければいけないという県警OBに佐藤に代わって謝り、私達は出発した。

 

 この先、巡礼路はレオン山脈を越えなければならないので徐々に傾斜を増す登坂が続く。 

 出発して既に3時間近い。見えて来たバルで少し腹ごしらえでもしようと考えていると、横から「オラ!」と声を掛けられた。あのイタリア女性だ。6日ぶりに顔を見る。

 それにしてもあのアルベルゲで別れた時はもう歩けないだろうと思ったが、よくまあ回復したものだ。しかも元気な足取りで私達に追い付いている。

 

 ここで休んでいくと言うと、急いでいるらしい彼女はバイ!と言って一旦、行きかけるがすぐにスマホをかざして戻って来た。そして私の肩を抱いて二人で自撮りした。イタリアでもセルフィーが流行っていることを初めて知った。

  

【蘇ったイタリア女性】

 

そのバルには先客がいた。江口を辛抱強いねとからかう女性だ。

  彼女は靴を脱いで足首を揉んでいた。見ると彼女も五本指ソックスだ。私もこのソックスのお陰で豆ができずにいる。三年前のカミーノでは全く知られていなかったが今ではすっかり普及しているらしい。

  私は「五本指ソックスとカップヌードルが日本の偉大な発明だよ」と言うが、彼女は疑わしそうだった。 

 

 そこから更に3時間歩いてラバナルに着いた。途中、アジア系の若い女性に会ったので「Where are you from?」と聞くと、「Japan」との答え。

 「なんだ日本か。ここは日本人が少ないから嬉しいよ」と言うと、彼女もうなずく。女性というよりも女の子といった方が相応しい。

 

後を追う佐藤とは村中に二軒あるアルベルゲのうち奥にある方にしようと決めてある。

 オープン前のアルベルゲには先程の女の子が先着していた。私達も並ぼうとしたら「お待たせ」と後ろから佐藤の声がかかり、彼の思いがけない早い到着に驚かされた。

 

  そのアルベルゲはイギリス人が運営しており、宿泊代はドネーション式だった。椅子に座って待っている我々三人の間でこのドネーションについてひと悶着があった。

 

 江口が聞く。「ドネーションっていくら払うものなの?」 

 私が答える。「ドネーションだからいくらでもいい」 

「えっ。だけど相場っていうものがあるだろ?」

 そんな江口に佐藤が追い打ちをかける。「それが日本人の悪いところ。ご祝儀をいくら包むか事前に相談するようなもの」

  江口は納得しない。私が付け加える。

 「今までアルベルゲは大体、10€だったろ。だからそれにもっと寄付したいと思ったら加えればいいし、逆に少しでも節約したい場合は極端に言えばお金を入れなくても咎められない」

 

 そんなやりとりを後ろに並ぶ外国人たちが不思議そうに見ているが我が日本の女の子は面白そうに聞いていた。

 

 無事、イギリス男性の面接を終えてザックを持ったところでまたあの女性が入って来た。 

最初の夜に隣室だった4人組の一人だ。私がまた会ったねと言うと彼女も「I’m also looking forward to seeing you」と答える。ただ今回は男性二人だけでなく一緒にいた女性の姿もなく彼女一人なのが不思議に思えた。

 

 洗濯物も干して、バルで至福のセルベッサタイムを過ごしていると先程の女の子が入って来た。彼女は宜しいですか?と聞いて隣に座った。まだ昼を食べていなかったようでペリグレムメニューを注文している。流暢なスペイン語だ。

 

 佐藤にあけすけに年齢を聞かれて26歳と答えたあと、京都出身で一度、法律事務所に勤めたが料理人になりたい夢が捨てきれずにそこを辞めて、ゆっくり今後のことを考えたくて前から憧れていたここを歩くことを決めたと言う。

 

 そしてさっきのやりとりが面白かったと言って、「三人はどういう関係なんですか?」と聞いた。

「大学でクラブが一緒だった。探検部」と佐藤が答える。

 

 私はそこに注釈を入れたくなった。「ただしね、今こうして三人で歩いているのが不思議なんだけど、仲が良かったわけじゃない。なんかこの二人と俺とは違っていた」

 そうそうと二人はうなずく。江口が「俺と佐藤はちゃんと4年までいたけど、こいつは途中で辞めたしね」

 私は、佐藤から東日本大震災の年に急に連絡を貰ってそれから一緒に山に行くようになったいきさつを話したあとで三人の共通点を披露した。

 三人とも卒業してもちゃんと就職せずに海外放浪していることが奇妙に一致している。でもいつかは自分の居場所を見つける。

「だからね、君もあせることはないさ。今は本当に好きだと思っていることをやればいい」と三人で励ました。

 

 前の日、アストルガで再会した時、佐藤が打ち明けたことがある。三人旅へのトラウマだ。 

以前、彼が友人と三人で海外へ洞窟探検に行った時、意見が対立して2対1に分かれてしまった。それ以降、孤立した一人との関係修復ができなかったとのことだ。

 今回、佐藤が合流を先延ばししていたのもそれが理由だろう。 

 しかし、我々三人がもし2対1に分かれるとしたら、1になるのは間違いなく私だ。

探検部時代だけでなく山歩きにしても硬派の二人に軟派の私はついていくのがやっとだ。だから今回、私が我慢さえすれば三人はうまく行くと思っている。

 

 アルベルゲではまた例の女性と同室だった。

  調子はどう?と聞くので、「I’m still alive」と答えると大笑いした。私の英語のジョークもたまには受ける。

 

 

12日目 ラバナル・デル・カミーノ⇒モリナセカ(25.6km

 

  今日から初めて佐藤と歩く。彼には大変、申し訳ない言い方だが彼の不調は私には好都合だ。いつもの半分もスピードが出ないと言う佐藤のペースが私には丁度いい。膝をかばうためかストックの助けを借りながら懸命に進む佐藤の後ろを付いていく私は先導車を風よけにして体力を温存している競輪の選手のようだ。

 

 イラゴ峠の鉄の十字架はカミーノを象徴する名所だ。中世の昔から多くの巡礼者が願いをこめてここに石を積み上げ、それが今は小高い丘になっている。そこに立つ木の十字架の先端に小さな鉄の十字架がくくり付けられている。

 

【多くの巡礼者の願いを積み上げた鉄の十字架】

 

 さすがに標高1500mの峠は風が吹くと寒い。早々と立ち去ることにする。

 

 丘の上からコロンビアの二人の女性が私達を見下ろしながら手を振るので私は「ビバ!コロンビア」と叫んだ。

 

 十字架の先にもう一つ小さなピークがあってその先から急坂を下らなければならない。 

 3年前、私たち夫婦はサンチャゴに向かう列車の中でブラジルのサンチャゴ友の会の会長を務める日系人男性にあった。私は彼にブルゴスから西で一番の難所はどこかと聞いてその時の答えがこの先に待ち構える下り坂だ。

 

 それでも途中のアセボ村までは所々でアスファルトの道を歩くので、それほど苦なく行けた。

 中腹から見下ろすアセボの村はどの家の屋根も黒く塗られている。これはスペインでは珍しい風景だ。私は九州の黒川温泉を思い出した。

 

 この村の先からいよいよつらい下りが始まる。道は切通しのようになっていて中央にごろごろところがる岩の上を歩かざるを得ないので足首にこたえる。ここを若者が軽い足取りで飛び跳ねるように下っていくがとてもそんな真似はできない。

 

【統一感のあるアセボ村のたたずまい】

 

 先の村で京都の女の子と一緒に歩いていた江口が彼女と並んで私達を待っていた。ここで記念写真を撮ろうと言う。京都の子は今日、ポンフェラーダまで行く予定だが、我々おじん共はとてもそこまではついて行けない。今日でお別れの可能性が高いので記念に写真を撮りたいらしい。

 

 三人で交互に写真を撮りあうと「それじゃまた」と彼女は先を急いだ。

 

【こんな女の子も一人で歩いています】

 

なんとか難所を下るのに2時間以上かかった。心配していた足首は頑張ってくれた。この日のためにわざわざ持ってきた足首サポーターも使わずにすんだ。

しかし、佐藤は引き続き不調のようで彼が言うように思うように体が動かないと注意力も散漫になる。

突然、佐藤がつぶやくように言った。「俺、ストックを間違えている」

 

今朝、アルベルゲを発つときに暗い中、手探りで掴んだ二本はどちらも自分のものじゃないことにさっき気が付いたと言う。間違えられた人はさぞかし困っているだろうが今更、引き返せない。三人ともほっかむりするしかない。

 

 

 モリセナカも美しい町だった。入り口に穏やかな川が流れていて水辺で観光客が遊んでいる。巡礼の村というより観光地という雰囲気だ。街中に入ると店が整然と並んでいる。

 商店がきれると高級住宅地に入った。その一角にある清潔そうなアルベルゲを私たちは宿泊先に選んだ。

 

 同室にアストルガで別れた山形県警OBの友人がいて佐藤と再会を喜ぶ。彼は明日はゆっくりこの先7キロの隣町ポンフェラーダを観光する予定だと言う。何があるんですか?と私が聞くと、「テンプル騎士団の城」だと言う。そう言えばガイドブックにもちゃんと案内されている。歴史好きには見逃せないだろう。京都の女の子がポンフェラーダに急いだ理由も分かった気がした。

 

【モリセナカ村はリゾート地だ】

 

このアルベルゲのオーナーはこの町の町長だと言う。しかもMPO法人「四国巡礼友の会」の会長でもあって夕食後に四国巡礼時の御朱印帳まで見せて貰った。

 

 佐藤は既に経験済みで八十八か所を全周している。江口は来年、挑戦すると言っている。またこちらであった外国の方でも四国巡礼への関心は高い。じゃあお前は?と聞かれたら私は「絶対に行かない!」と答える。

 

 この際だから、四国巡礼に感心のある方やここのオーナーのような関係者に嫌われることを承知の上で四国巡礼に対する私の意見を言わせて頂きたい。

 

 個人的にはあの白装束を気味が悪くて嫌いなのだがそれは置くとして、巡礼するのに金が掛かりすぎると聞いている。宿泊代、食費、時には必要になる交通費全てがスペインの5割増し見当だと思う。その上に、呆れたことに御朱印を押すのにお寺がお金をとる。四国巡礼路も世界遺産登録を目指しているそうだがスペインのアルベルゲやペリグレムメニューなどの様に巡礼者への便宜を図れる環境を整備しない限り登録申請は見合わせるべきだ。それでないとせっかく遠くからいらっしゃる方たちを失望させるだけだ。

 

 

13日目 モリセナカ⇒ヴィラフランカ・デル・ヴィエルソ(30.6km

 

 ポンフェラーダの市内に入るところで道に迷った。郊外の迂回路に迷いこんだらしく、どんどん市の中心部の明かりが遠くなるのでこれはおかしいと思いUターン。夜明け前の町に人影はなく、こういう時に限って後続の巡礼者も来ないので確かめることも出来ない。カミーノのガイドブックには詳細な地図が載っているが流石に複雑な市内になるとお手上げだ。

 

 ようやく朝が白み始めて陽に照らされて浮かび上がった道標を見落としていたことが分かり市内に入る。

 

 この日、先導役だった江口は「なんであんな大きな道標を見逃したんだろう。30分はロスした。自分が情けない」と悔やむ。あの暗い中、道標を見落としたってミスとは言えない。あの程度のことで反省しなければいけないなら私はとっくに荷物まとめて日本に帰っているところだ。江口と佐藤は完璧主義なところが似ている。

 

 時間をロスしたお蔭でポンフェラーダの名所であるテンプル騎士団がこもっていた城を通る時にはすっかり夜が明け、その威容をゆっくり眺めることができた。

 

【テンプル騎士団の城】

 

 ポンフェラーダ市内の巡礼路は面白い。城の脇を通り過ぎた後、美しい公園を突っ切り、川を渡ったと思ったら住宅地に入り、その中にある病院の建物の中を通り抜けたりする。まるで市の観光課が訪れた人に町のあらゆる面を見せようとルート設計したかのようだ。

 

 ポンフェラーダ周辺はワインの名所。巡礼路の周りにもぶどう畑が広がる。

 

 ハイウェイをくぐるトンネルを抜けると前からザックを担いだ女性が歩いてくる。実はここ一時間ほどは一本道だからと安心して道標を確認していないことに気づいてちょっと不安になっていたところだったので「また間違えたかと?」と思い女性に話しかけた。

 

「これ、カミーノの道ですよね?」

 

 そうすると彼女は私の心配を察して、「そうだけど、私はフランスの自宅に帰るところなの」と答える。 

 えつ!つまり一度、サンチャゴまで行って、帰りも歩くということか!

 

 私は思わず頭を下げて握手までしてしまった。彼女は初め手を差し出す私に驚いたふうだがすぐににこやかに笑って手を握り返してくれた。

 

 考えてみれば中世から続くこの道。昔の巡礼者は皆、サンチャゴにたどり着き大聖堂にお参りした後も歩いて故郷に帰っているわけだ。中には命を落とす人も少なくなかったという。私には想像もつかない世界だが、この現代になってもその昔の苦労に自らの意思で習おうとする人たちがいる。その信念には敬意を払いたい。

 

 佐藤が加わって、夕方のセルベッサタイムを作戦会議と呼ぶようになった。単に翌日はどこまで歩くかを決めるだけのことだ。

 

 ガイドブック上ではモリセナカからの一日分の行程は30キロを超える。しかし、佐藤の調子が今一つなのでそれはちょっときついという事で、今日は途中の小さな村、ピエロスあたりでアルベルゲを探そうと昨日の作戦会議では決まっていた。

 

 ところが案に相違して、今日の佐藤は調子がいい。江口と競うように歩いている。カカベロスの村を抜けてピエロスに登る自動車道に出た時には坂のピークに差し掛かった二人がそのまま視界から消える。

 

 やがて道路脇にピエロスという標識があり村に入ったと分かった途端に村唯一のアルベルゲを示す矢印がある。二人はここに入ったに違いないと思い薄暗いレセプションで荷を下ろす。しかし、今日は日本人はおろか誰もまだ来ていないとのこと。私は迷ったが、どうもそこのアルベルゲは暗い雰囲気で気が乗らない。そこで、どこに行ったか分からない二人を追うことにした。

 

 もう一度、自動車道に出て坂を登る。やがてまた道路脇の標識に村の名が記されて斜めに消し線が入っている。ピエルスの村はここまでという意味だ。

 黙って次の村に行くわけがないと思い、スマホを取り出して佐藤に電話する。呼び出し音はするが出ない。次いで江口にかけるが相変わらず電源OFFだ。

 

 途方にくれていると女性が登ってきた。英語は分かるか?と聞くと、少しならと答えるので二人の日本人男性を見たか?と聞く。彼女も見ていないとのこと。

  この小さな村の一本道で身を隠せるわけがないので理由は分からないが先の村に進んでいるに違いない。

 

 さらに困ったことにその先で巡礼路が二つに分岐している。右の山道を行ったのか、そのまま自動車道を行ったのか、判断のしようがない。

 

 やがて右の山道を戻って来る二人が見えた。私には気が付かない。間抜けなことに今になってガイドブックを見て道を確認している。

「オーイ!」と呼びかけて、やっと私に気が付く。「あそこで泊まる筈じゃなかったのか?」とどなる。

 

「すまん。すまん。あれがアルベルゲだとは思わなかった」

 

 先程の女性が左の自動車道へと進んでいるのが見えたので、私は腹立ちまぎれに、

 I found two foolish Japanese men!」と報告した。

 

 ガイドブックによると右の山道を行けば、1キロ先にバルと宿泊所がある。一方、左の自動車道だと4キロ以上あるが大きな町に出る。そこには何軒もアルベルゲがある。

 

 私達は山道を選んだが結局、この賭けは負けだった。バルに着いて、聞いてみるともうその宿泊所は閉鎖しているらしい。

再び臨時の作戦会議。今更、自動車道に出る気もしなかったのでそのまま歩いて次の村での合流を目指すことになった。そして今度は集合するアルベルゲも確認する。それでもはぐれるようなことがあるなら「もうそこで解散しよう」と私は言った。

 

 二人が悪いわけではないが私の気持ちは、ムシャムシャしていた。それに佐藤と合流したことをメールしたのに妻から返事が来ないのも気になっていた。時差を計算すると日本はまだ夜の9時だ。そこで歩きながら日本に電話したが出ない。

 

 悪いことは重なるもので、カメラの電源を入れたらレンズエラーの表示。以前、槍ヶ岳でも同じ症状を経験している。カメラをケースにも入れずにぶらぶらと首からぶら下げていたのが悪かったと反省しても後の祭りだ。

 

 結局、ヴィラフランカまで歩いた30キロは一日の歩行距離では今回の旅で最長のものになった。

 

 その日の、作戦会議。佐藤は流石にすまなかったと思ったか今後、待ち合わせ時には携帯をONにしておくことを提案した。

  その上で、私のカメラの故障を聞いて、自分のカメラを使えと差し出してきた。それはいくらなんでもと、遠慮するが、自分に代わって撮ってくれと逆に頼んでくる。

 

 佐藤が山に行っても一切、写真を撮らないのは前から知っていた。それが今回だけは記念写真くらい残そうと思って初めてコンパクトなカメラを買って持ってきている。ところが初めの頃こそ数枚撮っていたがここ10日間は一切、触ってないと言う。多分、充電器を落とした時点でシャッターを押すことを忘れたのだろう。それならと遠慮なく彼に代わって撮影を担当させて貰うことにした。

 

 

 そのアルベルゲでは佐藤と顔見知りだったブラジル男性とデンマーク男性が同室だった。ブラジル男性は2メートル近い巨体。日本に行った時に国技館に相撲を見に行ったという。

「その時に何故、相撲部屋に入門しなかったの?」と冗談に聞くと、

「何故なら、私は太ってないから」と適切な答えだった。

 

 

14日目 ヴィラフランカ・デル・ヴィエルソ⇒ラス・エリエーアス(19.7km)

 

 ここから先はついに最後の難関、オ・セブレイロ峠越えだ。標高差700mを一気に登り切るのは無理なので、どの巡礼者も途中の村に泊まる。幸い小さな村が連なっているので選択肢は豊富だ。前日の作戦会議で20キロ先の村と決めた。

 

 山峡の川沿いに沿って登る巡礼路は気持ちがいい。この辺から酪農家が多くなり、ときおり放牧された牛が草を食む姿を見られるのも楽しい。

 

 陽気なコロンビアの女性二人とも再会した。

 

「アミーノ、アミーノ」と彼女たちが呼びかける。そして日本語でアミーノをなんて言うのか聞くので、「ガンバッテ」と答えるとその語感が楽しいのか、「ガンバッテ、ガンバッテ」と繰り返す。

 

【酪農地帯に入った】

 

【左手には城も見えた】

 

 目標の村に近づいて、ここはワインの名産地なのでたまには贅沢してワインのボトルを買おうとワイン党の佐藤の提案が採用され手前の村の雑貨屋で15€の白ワインを購入した。

 

 再び歩き出して、先に行った筈の京都の女の子と再会。どうやらポンフェラーダ見学に時間をついやしたとみえる。

 

「さっき江口さんがワインをザックに詰めているのを見ました」というので、

 「ということはもう歩く気はないということです」と答える。

 

 一軒目のアルベルゲで予約が必要と断られたので隣のアルベルゲに入る。そこは食事の提供をしていない。さっき断られたアルベルゲが兼業しているバルがこの村で唯一だ。よって夜はそこに行かなければならないのはしゃくだった。

 

 いつものように洗濯物を干そうとしたら南向きの軒下でもうそろそろ日が陰ってくる場所しか空いてない。これでは夜までには乾かないと判断したので持参したロープを向かいの塀にかける。そこに洗濯物を干そうとしたら女性オーナーが飛んできて、「そこは駄目。隣の敷地だし苗木が痛む」と怒られる。どうにも仕方ないので、もう陰ってきたところに干すしかない。どうせ明日も晴れる。乾かない下着はザックに括り付けて歩けばいい。

 

 江口曰く。「一回3€の乾燥機を使わせたいのさ。ここは利用者の便宜を考えない、商業主義だな」

  同感だ。だけどこういう予測不能な事態もカミーノの楽しみだ。

 

 

 庭にハンモックがあって、そこでくつろいでいる青年と佐藤がおしゃべりしている。その脇の芝生にうつぶせになって恒例になった江口によるマッサージを受ける。 

 青年の出身はチェコだそうだ。国の友人が日本に住んでいて日本酒の酒蔵を創業したという話に驚く。彼も数年前に友人を訪ねて日本に来ている。

 

 私達が隣に夕食を食べに行くと言ったら、すでに食事を終えている彼も一緒にビールを飲んでいいかと聞く。勿論、異論があるわけがない。

 

 彼は日本が大好きだと、嬉しいことを言う。特に日本食が好きで、サシミが最高だと言うのには驚いた。多分、友人の指導が優れているのだろう。

 

 近いうちにまた日本に行くと彼が言うので、私は今がチャンスだと思い名刺を差し出した。

 名刺には日本サーバス関東支部と英語で書いてある。そこでサーバスの説明をして、もしあなたがチェコサーバスに入会したら我が家に無料で泊まれるよと案内。今回のサーバスリクルート第一号だ。

 

 私はチェコ男性との会話が面白くてついついワインを飲みすぎた。その夜、私は江口に鼻をつままれそうになる。爆音を発していたそうだ。

  私が飲みすぎた夜はいびきがひどいと妻にこぼされていた。

 

 その翌日からは巡礼中はワインを控えることにした。

(4)に続く