スペイン巡礼紀行 後編 (5) 春日屋 誠

 

18日目 フェレイロス⇒オスピタル(19.5km

 

午前6時。いつもの通り出発しようとするとドアの前でヘッドライトが光り四人の女性が入って来た。各自、二つずつザックを抱えている。

 

何事かと思うが、切迫したような雰囲気があって声をかけづらい。私たちは挨拶もせずに外にでた。

 

彼女のうちの一人は伝票のような物を持っていて皆に配っていた。それで、はは~んと事態が飲み込めた。

 

恐らく彼女らは前夜、ここより少し先のペンションに泊まった。そこで、グループのうちの誰かがもう歩けないと言い出す。それでトランスポートを利用することにしたが、生憎そこはペンションなのでそこから運んで貰うことはできない。そこでここのアルベルゲに頼んで伝票も貰ったうえで所定の場所に荷物を置きに来たのだと思う。

 

 佐藤はつらそうだが、トランスポートを頼もうとは一言も言わない。私と江口も提案しない。私でさえ探検部経験者として自分の荷物は自分で運ぶべきだという自負があった。でもこの紀行文を書いている今から考えると、私達は意固地が過ぎていたのではないかと反省している。自分達の体力に見合ったもっと柔軟な対応をしても良かったと思う。

  

今日はいつになく好調だ。あれだけ痛んだ右膝も嘘のように回復している。珍しく私が引っ張って車道を下る。

 

しかし、ずっと好天続きだったのにその日は遠く稲光がしていて雲行きが怪しい。数分おきの雷鳴は南西の方向から心なしか近づいているような気がする。降り出す前に次の町、ポルトマリンに着きたいと急ぐ。

 

 それで、いい気に飛ばしていたらやっぱりチョンボをやらかした。自動車道との交差点に出てしまった。これはおかしい。標識も見当たらない。これは引き返すしかない。結局、10分戻った地点で右に曲がる矢印を例によって暗闇の中で見失ったことが分かった。

 

 そこからはトップを江口にまかせ私は大人しくしんがりを務めた。

 

 ポルトマリンの手前で車道から折れて山道ルートを選んだ。そこは恐らく昔ながらの巡礼路だったのだろう。岩だらけの細い道でしかも急斜面の下りだ。ところどころでは両手で岩につかまらないと危ない。僅か10分ほどだがスリル満点の面白い道だった。

 

 さらにスリリングな体験が待っていた。

 

 ポルトマリンの手前に長い橋がかかっている。近づいてみると橋梁の高さは半端じゃない。80mはありそうだ。

 

 それだけではない。手すりが低いうえに歩道の幅が狭い。川底に目をやると吸い込まれそうで身がすくむ。

 

 一番、頑丈そうな江口は意外なことに高所恐怖症だと言って目を車道側にそむけて肩をすくめながら歩いている。

 

 私は車道を横切り右側の歩道に行ってみた。そこを進んでいたグループメンバーがこっちも狭いよと笑う。

 

 そこで早朝で車の通行量が少ないのをいいことに車道におりた。一台の車が反対車線にはみ出して私を追い抜いて行った。

 

 公衆道徳にうるさい江口に「迷惑かけているじゃないか」と叱られる。

 

【ポルトマリンの恐怖の橋】

 

 ポルトマリンの中心市街に行くのには長い階段を上がらなければならない。それが面倒に思えたのでそのまま巡礼路を進み町を迂回することにした。昨日のアルベルゲでりんごを買ってあるので朝食はそれで充分だと思ったのだ。ところがその日は判断力が狂っていたようだ。

 

先程の橋より上流にかかるもう一本の橋を渡ったところで雨が降り出した。慌てて合羽をはおり、ザックをレインカバーで覆う。

 

二三日前から私は教会を見つけたら毎日の好天への感謝の祈りを捧げなきゃと思いながら実行していない。その罰が当たったのだ。

 

 

私が反省しているので天は大目に見てくれたようですぐに雨は小降りになった。すると今度は昨日の高校生達が沸いて出て来た。多分、ポルトマリンに宿泊していたのだろう。相変わらず無秩序な集団が駆け足の速さで追い抜いて行く。意外なのは男女が別々に固まって歩いていることだ。ペアで歩いているのはほんの二三組だ。もっとスペインの若者は開放的だと思っていたが、私達が出会ったその学校に限っては非常識な振る舞いは見られない。

 

 

自動車道に沿った登坂だった。チェストストラップの不具合もあって歩きにくい。後ろに手を回してザックを引き上げようとして愕然とした。ザックの底から何か硬い金属のようなものが飛び出ていて手に当たる。

 

丁度、雨がすっかり上がったので合羽をしまう時に確認したらザックの底に小さな穴が開いている。なんとここに来てザックが破壊されつつあるのかと思うとうんざりした。

 

 

その日は厄日だった。前日の作戦会議で決めた村まで行くと、2軒あるアルベルゲがいずれも満員。多分、先ほどの高校生共に占拠されたのだろう。早くも中間村作戦は行き詰った。

 

選択肢は二つ。4キロ先のアルベルゲまで登って行くか、2キロ下って通り過ぎた集落に戻るかだ。

 

「今日の調子ではあと4キロは歩けない」という佐藤の一言で戻ることに決まった。しかし、戻ってもベッドが空いている保証はない。そこで佐藤の語学力に頼ることになった。

 

 ガイドブックでそこのペンションの電話番号を調べスマホからかける。そして彼は長年のスペイン語学習の成果を存分に発揮して三人分のベッドの予約を取り付けることができた。

 

 

 ペンションに入り部屋を確認するとダブルベッドとスペアベッドの3人部屋だったので急遽、シングル部屋を追加交渉。結局一人30€の散財になったが、とにもかくにもベッドを確保できたのは佐藤の功績だ。

 

 私のザックの様子を三人で見た。するとザックの型を作る支柱が外れて落ちて来ていることが分かった。問題はそれにどう対処するかだ。そこで上部の開け口を見ると容量を調整するための紐が使われずに残っている。そこで支柱を引っ張り上げてその紐を巻いたあと硬く結んで支柱が落ちないようにした。

 

 この一連の作業の立案と実施は二人におまかせ。私はただ傍観するしかなかった。

 

 やはり危機に際しては正統的な探検部硬派とにぎやかしに過ぎなかった軟派の実力差をみせつけられて私は小さくなるしかなかった。

 

 

 夕食の時、離れたテーブルに懐かしい顔が男性と座っていた。かなり前に私が特効薬を渡そうとした女優似の女性だ。確か、三日前に会った時は一日休養すると言っていたがすっかり回復したと見える。

 

 彼女は、ここではワンピースに着替えている。女性の中にはディナー用の服まで準備している人がいるらしい。ご苦労なことだと思う。

 

 

19日目 オスピタル⇒メリデ(28.7km

 

 出発して1時間。早くも開いている小さなカフェにマッチョな男性の先客がいた。こんなに早くからどこから歩いてきたのだろうと不思議に思ったのだろう、江口が昨日はどこに泊まったのかを尋ねた。すると男性は、にやっと笑って「Good question」と答える。これは池上先生の「いい質問ですね」とは意味合いが違う。少し説明を要する答えになるという意味だ。

 

 彼が言うには、昨日は一軒家の農家を見つけたのでそこに泊めて貰ったそうだ。なんという行動力だろう。宿泊所の心配をすることなく行きつける所まで行って、適当な所で泊めて貰いたいと交渉する。そういう歩き方もあるのだ。私は彼に密かにミスター・アグリカルチャーという綽名を付けた。

 

 

すっかり日も高くなった頃、パレス・デ・レイの町の入り口に小さな教会があったのでここで遅まきながら感謝の念を込めてお祈りしようと扉を開けた。

 

金曜日の午前中だが、教壇の前で神父が数人の信者を前にして祈禱を捧げていた。賽銭箱に相当するものはどれかなと目をこらすと、ちゃんと1€と書いた紙を貼った箱がある。私は感謝の言葉をもぐもぐと言って、ちょこんと頭を下げ、不信心な二人の分も含めて3€を入れただけで退出した。かなり簡略化したお祈りだが心は込めたつもりだ。

 

【少しだけ祈りを捧げた教会】

 

 昨日、佐藤と江口はいとも簡単に私のザックの不具合を解決した。それを見て、もう一つの不具合であるチェストストラップの件くらいは自分で工夫しようと考えた。すると何ということはない、チェストストラップは左右ともまだ長さに十分な余裕があるのでそれを目いっぱい伸ばし、双方を胸の前で縛ればいいという簡単なことに気が付いた。ザックを下ろす時にほどかなければいけないのは面倒だがショルダーストラップがずれる煩わしさに比べれば何ということもない。それにザックが後ろに引かれる感覚もなくなった。

 

 

 パラス・デル・レイの村を過ぎるとまた小さな凹凸を繰り返す山道になる。このあたりからは酪農家が多くなるのか再び道を牛糞が覆う。大げさでなく、牛糞の間に注意深く足を下ろしながら歩く感じだ。そして、その匂いは耐えがたく臭い。

 

 ここに住む人はこの環境にどう対応しているのだろう。嗅覚は五感の中でも一番、柔軟性が高く、同じ匂いを嗅いでいると慣れて感じなくなるそうだが、それでも服に匂いが染み込みそうだが、どうしているのだろうか?

 

そんなことを考えていたら脇の農家からでてきた牛の行進に巻き込まれた。牛は当然のように道幅一杯に広がるので追い越せない。しばらく糞まみれの牛の尻に付いて歩くことになった。

 

【佐藤が牛に囲まれている】

 

 中世に作られたという橋を渡ってメリデの町に入ったが、ここは思った以上に大きな町で横に広がった坂をさらに登り、商店の密集地帯を抜けるところまで行って州政府経営の公営アルベルゲに入った。

 

 レセプションで後から入って来たイタリア人男性が「日本に行ったことがあるが、あんなに素晴らしい国はない。町や自然は綺麗だし、食事も素晴らしい」と、誉めちぎる。

 

彼が、「何と言っても日本人は皆、親切だ」と加えるので、「俺達以外はね」と混ぜっ返すと「でも君たちはここにいるから、今、日本は全員、親切だ」と返す。

 

また一本、取られた。

 

 そのイタリア人とはシャワールームでも顔を合わせた。私は彼の隣のシャワーブースに入った。体に牛糞の匂いがしみ込んでいるような気がしていつも以上に入念にシャワーを浴びていたら、私の手から石鹸がすべり落ちて隣のブースに滑っていってしまった。途端に隣の彼が蹴り返した。流石、パスサッカー王国イタリアだ。見事なフットワークだった。

 

 

 メリデの町には私が楽しみにしていたことがある。ガイドブックにも紹介されている「プルポ」という名物タコ料理だ。

 

 その名店の場所をレセプションに聞いて、二人を引き連れて行ったが、正直言ってイマイチだったのは残念だ。

 

 

20日目 メリデ⇒Taberna Velha19.6km 

 

 サンチャゴまであと僅か50キロだ。ここまで来ると顔なじみになった同志からは「いつゴールするの?」と聞かれることが多い。

 

 選択肢は二つだ。多くの巡礼者が朝なるべく早くサンチャゴについて巡礼事務所に直行する。そこで午前中に巡礼証明書を発布して貰えると、以前はその日の昼からのミサの中で巡礼達成者として名前を読まれたからだ。但し、今は巡礼者の急増にともない簡略化されて一人一人の名前が読まれることはなくなった。

 

 もう一つの方法は、午後のいつも通りの時間にまずアルベルゲに入り、それから巡礼事務所に行き、翌日のミサに参列するというものだ。

 

 どの作戦をとるにしても前日の行程にも影響するのでそろそろ決めなければならない。

 

現時点で当初の行程予定より1.5日分先行しているので帰国便まで相当の余裕がある。加えて、私は3年前に巡礼事務所で2~3時間の行列は覚悟しなければいけないのを目撃している。よって私達はここから先は余裕ある日程を組むことになった。

 

 とりあえず今日の宿として20キロ先のTaberna Velhaというアルベルゲに昨日、佐藤が電話して予約してある。

 

 そこがオープンするのは3時ということなので、今日はゆったりとした気分でスタートすることができた。

 

 

 日に日に調子が良くなっている。普通、毎日歩いていれば一週間で体が慣れるというが体の固い私は三週間近くかかったのだろうか、やっと巡礼向きの足腰になってきたのかもしれない。あんなにずっしりと重く感じていたザックが今日はいつもより軽いような気がする。ウェストストラップ対策をしただけでこんなに違うものだろうか。もしや寝袋を入れ忘れているなんてことはないよな、と本気で心配になったほどだ。

 

途中、江口を待たせる時間も格段に短くなった。むしろ二人で佐藤を待つことが多い。佐藤の膝は相変わらず痛むようだ。よくここまで持ったというべきかもしれない。

 

デンマーク男性が追いついてきた。彼も、いつサンチャゴに入る予定かと聞くので、101日だと答える。彼も同じ日だと言う。その日に奥さんがデンマークから飛んできてサンチャゴで一か月ぶりに会う予定だと言う。大男が照れもせずに奥さんとの再会を嬉しそうに話すのは微笑ましかった。

 

途中、小休止したリバディソ村で山形県警OBと再会した。今日はここのアルベルゲに泊まるつもりだがまだ開いてないので待機していたと言う。モリナセカで私達と会った彼の友人はサモスを経由しているので別行動だそうだ。サモスには有名な修道院がある。ご友人はよっぽどの歴史好きだと思う。

 

「皇太子さまがここを歩いたそうです」と県警OBが言った。

 

 佐藤が、「一人で歩いたんですかね?」と聞くので、私はうっかり「マサコが歩くわけないだろ」と突っ込んでしまった。

 

「お友達ですか?」と県警OBが言う。しまった、元警官の前で不遜なことを言ってしまったと私は沈黙。江口の目が冷たい。

 

 

 道標の数が増えた。見る度にサンチァゴが300メートルずつ近づく。アルスーアという村を過ぎて暫く歩いたところで道標に42.044kmとあった。マラソンコースの距離を切ったわけだ。

 

【マラソンランナーならあと2時間だ!】

 

 アルベルゲには2時前に着いてしまった。そこには道の右側にアルベルゲらしい少し大きめの家があって、他には道を挟んで民家があるだけでバルらしいものは見当たらない。仕方ないので隣の空き地でアルベルゲが空くのを待つ。庭先に高床式の倉庫があった。

 

【ガリシア地方で見られる高床式倉庫】

 

 3時になってもアルベルゲが開く様子はない。呼び鈴を鳴らしても人がいる気配もない。

 

こりゃあどうしたことか?と思案していると、向かいの民家から女性が出てきて、「あなたたち何やっているの?」と聞く。なんと民家だと思っていた方がアルベルゲだった。

 

 ドイツ人の夫婦が営むそのアルベルゲは八人部屋が一室だけの極めて小規模なものだった。夫婦の他には居候らしい髭もじゃのドイツ人が手伝っているだけだ。少人数しか泊めないかわりに極力、宿泊者の便宜には気を配っているらしく女将さんが「洗濯物はこの籠に入れて。私が洗濯して乾いたら部屋に届ける」と言ってくれたのには三人とも感激した。

 

 後からドイツの若い男女三人組が加わった。彼らも予約していたようだ。

 

 庭のベンチにドイツの女性二人が座っていたので三人でビールを持って横に割り込んだ。二人のうち、小柄な方は積極的で日本文化にも興味があって盛んに漢字のことを質問する。一方、大柄な方は言葉少なめでただ私達の話を微笑みながら聞いている。ドイツにもこういうシャイな女性がいるのかと意外だった。

 

 女将さんがディナーメニューを説明する。一皿目がズッキーニスープ、二皿目がライス付きの煮込み料理でオリジナルレシピだと言う。ズッキーニスープと聞いて、江口の顔がほころんだ。よっぽどマドリッドのホテルで食べた時に感激したとみえる。

 

 成程、スープは絶品だった。ズッキーニは食べなれていないがほろ苦さと甘みを含んだそれとクリームとの相性が抜群だ。テーブルにでんと置かれた大ぶりなポットから皆、お替りをする。

 

 二皿目にもびっくりした。牛肉と各種野菜のトマトソース煮込みが大皿に盛られ、それを各自のライスにかけて食べるのだが、そのライスの炊き加減が抜群で、これは立派に「ご飯」と言える。さっき女将さんは寿司が好きだと言っていたから相当に研究したのに違いない。

 

 更にデザートのアイスクリームも再三経験した棒アイスなどではなく自家製の濃厚なクリームにフルーツまで添えられていた。

 

厨房から出て来た女将さんに佐藤が「このアルベルゲの食事が今までで最高です」と素直に誉めた。

 

 

 食事だけでなく相席のドイツの若者たちも含めた会話も楽しかった。旦那さんが出てきて挨拶し、日本人のゲストは珍しいからか私達に配慮して日本車の優秀さを誉める。加えて日本人の礼儀正しさを示すエピソードを披露した。

 

 ある日、旦那さんが庭仕事をしていると、日本人の巡礼者が立ち止まった。そして旦那さんの愛車を指差して、これはあなたの車かと尋ねる。それで「そうだ、もう10年も乗っている」と答えると、彼は深々と三回、頭を下げたという。

 

 するとドイツの青年が自分もトヨタ車オーナーだと言うので、私は立ち上がって三回、彼に頭を下げた。

 

 旦那さんに代わって女将さんが会話に加わり、彼ら夫婦のアルベルゲ運営ルールを語った。まずここは自分たちの生活の場でもあるから、自分たちの生活を犠牲にしてまでゲストを世話することはしない。ちなみに明日は休むことにしているとのこと。

 

 もう一つのルールとして、良き人しか泊めないと女将さんは断言した。そして、「昨日、あなたからの電話を受けた時、この人は誠実な人だと直感した」と嬉しいことを佐藤に言った。

 

 あとになって江口から聞いたことだが、夕方になってカップルが庭先に入って来たという。二人は他人の目を気にせずにベタベタしていて江口は不快だったそうだ。その二人が女将さんに今日泊まれないか?と聞く。二つベッドは空いている。しかし、女将さんは今日は満室だと言って追い返したそうだ。

 

居候の「髭もじゃ」も会話に加わり、皆が共通の目標を持っているカミーノでは言葉が通じなくても意思が伝わるとの話には皆が同感。

 

カミーノとサーバスの共通点は草の根国際交流だ。そこで私はまた名刺を取り出してドイツの若者たちにサーバスを紹介した。すると「髭もじゃ」はここには沢山のゲストがくるから俺からも案内しておくと言い出すので数枚の名刺を彼に託した。

 

その会話の間、相変わらず大柄な方の女性は専ら聞き役だ。そして女将さんが何やらドイツ語で話しかけた。どうも、「貴方も少し自分の意見を言いなさいよ」とでも言ったようだ。

 

すると驚いたことに彼女の目から涙が・・・。小柄な女性が彼女の肩を抱きながら、「ちょっと今、ナーバスになっているの」と言った。色々あるらしい。

 

【最高だった女将さん】

 

【ドイツの三人の若者と「髭もじゃ」】

 

(6)に続く